与謝野晶子

和服姿で、束ねた髪の与謝野晶子の肖像写真(胸から上)。
原綴
Yosano Akiko
生没
1878–1942
出身
大阪府堺県堺(現・堺市)
本名
鳳志よう
日本
時代
近代

生涯

1878年、大阪・堺の和菓子屋の家に生まれた。家業を手伝いながら古典に親しみ、和歌を作った。

雑誌『明星』を主宰する歌人・与謝野鉄幹と出会い、家を出て結ばれた。鉄幹には妻があり、この経緯自体が当時の話題になっている。1901年、22歳で第一歌集みだれ髪を出した。

十二人の子を産み、そのうち十一人を育てた。夫の詩才が衰えて家計が苦しくなると、執筆で一家を支えている。生涯に詠んだ短歌は五万首に及ぶとされる。女子教育にも力を注ぎ、文化学院の創立に参加して、女性の経済的自立を論じる評論を数多く書いた。1942年、63歳で死去。

作風

晶子の短歌は、女性が自分の身体や欲望を、受け身ではなく自分の側から詠んだ点に特徴がある。代表歌「やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」は、やわらかい肌の熱い血潮に触れようともせず道徳を説く相手に、寂しくないのかと問う歌である。当時これが衝撃的だったのは、主題ではなく主語による。

和歌の恋の歌は千年前からある。だがその多くは、男を待ち、耐え、嘆く側から詠まれてきた。晶子はその逆に、自分の身体と欲望を能動的に肯定する立場から詠んだ。「乱れ髪」という題そのものが、社会的な体裁からの逸脱を示している。風紀を乱すという非難と、熱狂的な支持を、同時に集めた。

抑制や技巧より、感情のたかまりを前面に出す歌風で、近代短歌における浪漫主義(ロマン主義)の到達点とされる。一方で、古典への深い素養もあった。源氏物語を生涯に三度、現代語訳し直している。これは明治以降の源氏の現代語訳として最も早い時期のもので、谷崎潤一郎らの訳に先行する。情熱の歌人であると同時に、古典の学者でもあった。

作品

みだれ髪(1901年)

第一歌集にして代表作である。女の身体と欲望を能動的に歌い、明治の若い女性たちに大きな影響を与えた。

「君死にたまふことなかれ」(1904年)は、日露戦争のさなか、雑誌『明星』に発表した長詩である。旅順の攻囲戦に出た弟に呼びかける形をとり、「親は刃をにぎらせて/人を殺せとをしへしや」「すめらみことは戦ひに/おほみづからは出でまさね(=天皇は自ら戦場に出ないではないか)」と歌った。発表と同時に激しく攻撃され、評論家の大町桂月が「乱臣賊子」と呼んで批判し、論争になったが、晶子は「歌はまことの心を歌うもの」として押し通し、撤回しなかった。

『新訳源氏物語』ほかは、源氏物語の現代語訳(三度改訳)である。

文学史における立ち位置と影響

晶子は近代短歌における浪漫主義の頂点とされる。正岡子規が「写生」(見たものをありのままに)を掲げた同時期に、晶子は逆方向の情熱と主観の高揚を極めた。近代短歌は、この二つの方向の間で展開したと見ることができる。

雑誌『明星』は、明治後期の詩歌の中心的な場だった。石川啄木北原白秋らをここから世に送り出している。

「女性が自分の主体を書く」という行為の日本における最初の大きな例として、文学の外でも参照される。ただし「君死にたまふことなかれ」を反戦詩として読むときには注意が要る。晶子は原理的な非戦論者ではなく、後年には戦意を鼓舞する内容の作品も書いた。この一貫しなさを含めて評価するのが、今日の一般的な見方である。著作権保護期間は満了している。

作品

登場する文学史