小倉百人一首

作者
藤原定家
成立
1235頃
日本
時代
中世

概要

百人から一首ずつ選んだ、百首だけの小さな歌集である。七世紀の天智天皇から十三世紀の順徳院まで、ほぼ年代順に並ぶ。 五百年の和歌が百首で通観できる。

もとは襖の装飾のために作られた。藤原定家が、息子の縁者である宇都宮頼綱から、京都嵯峨の小倉山の山荘の襖に貼る色紙に和歌を書いてほしいと頼まれた。その百枚が、この歌集の始まりにあたる。 一冊の本として編むつもりで選ばれたものではない。

選ばれている歌には偏りがある。恋の歌が四十三首と最も多く、次いで四季。戦や政治の歌はない。 また、有名な歌人の代表作が必ずしも入っていない。定家が良いと考えた一首が選ばれている。

百人のうち二十一人が天皇・皇族で、女性が二十一人。僧も多い。身分と性別の幅が広い一方、時代は平安中期から鎌倉初期に集中している。

この歌集の性格を決めているのは、後の使われ方である。江戸時代に入り、木版印刷でかるたとして大量に作られた。正月の遊びとして庶民に広まり、そこから注釈書、絵入り本、教科書が派生した。

結果として、日本人が最も多く暗記した和歌になった。百首を全部覚えている人は、万葉集古今和歌集も読んでいなくても、和歌を百首知っていることになる。

文学史における評価と影響

和歌が一般に届く経路を作った歌集にあたる。

万葉集古今和歌集新古今和歌集も、読むには相当の教養と時間が要る。この歌集は百首しかない。 覚えられる量に収まっていることが、そのまま普及の条件になった。

かるたという形式が決定的だった。上の句を読み、下の句を取る。この遊びのために、人は意味を考える前に音を覚える。遊びが暗記を強制し、暗記が古典への入口になった。 現在も競技かるたとして続いている。

定家の選択そのものへの評価は分かれてきた。技巧的な歌に偏っている、有名歌人の代表作を外している、という批判が近世からある。正岡子規も、この百首の水準は高くないと述べている。

一方で、選び方に意図を読む研究もある。冒頭と末尾に天皇の歌を置き、承久の乱で流された後鳥羽院と順徳院の歌を最後に置いた配列に、定家の政治的な立場を読む解釈である。ただし定家がどこまで意図したかは分かっていない。

注釈と派生が大量に生まれた。江戸期には歌の意味を絵で説明した本が出回り、明治以降は教科書に入った。近年は漫画『ちはやふる』が競技かるたを扱い、若い層に届いている。この歌集は、内容よりも受容の仕方によって文学史に位置を持っている。

内容

冒頭。第一首は天智天皇の、秋の田のかりほの庵の苫をあらみわが衣手は露にぬれつつ。刈り入れの小屋で夜を過ごし、袖が露に濡れる。第二首は持統天皇の、春すぎて夏来にけらし白妙の衣ほすてふ天の香具山。天皇の歌二首で始まる。

恋の歌が最も多い。全体の四割を超える。

小野小町の、花の色は移りにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに。花の色があせたことと、自分が長雨を眺めて過ごすうちに衰えたことを重ねる。

在原業平の、ちはやぶる神代も聞かず竜田川からくれなゐに水くくるとは。

蟬丸の、これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関。逢坂の関で、行く人も帰る人も、知り合いも他人も、出会っては別れていく。

技巧の目立つ歌も多い。掛詞、縁語、序詞が凝らされている。壬生忠見の、恋すてふわが名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひそめしか。

僧の歌も入る。西行の、嘆けとて月やは物を思はする、かこち顔なるわが涙かな。

末尾の二首は、承久の乱で流された二人の歌である。後鳥羽院の、人もをし人も恨めしあぢきなく世を思ふゆゑに物思ふ身は。そして順徳院の、ももしきや古き軒端のしのぶにもなほあまりある昔なりけり。古びた宮殿の軒に生えたしのぶ草を見て、昔を思う。 この二首で百首が閉じられる。

作者

登場する文学史