高村光太郎

生没
1883–1956
出身
東京市下谷区(現・東京都台東区)
日本
時代
近代

生涯

1883年、東京に生まれた。父は木彫の名工である高村光雲。自身も彫刻を学び、東京美術学校を卒業後、ニューヨーク・ロンドン・パリへ留学した。パリではロダンの彫刻に強く打たれている。

帰国後、日本の美術界の因習に反発して芸術運動に加わった。1914年、洋画家の長沼智恵子と結婚。詩集『道程』もこの年に出ている。智恵子は後に統合失調症を患い、1938年に世を去った。その闘病と死をめぐる詩をまとめたのが『智恵子抄』である。

太平洋戦争の期間、光太郎は戦意を鼓舞する詩を数多く書いた。敗戦後はその責任を自らに問い、岩手県花巻の山中に小屋を建てて七年にわたり独居自炊の生活を送る。1956年、東京で没した。

作風

初期の詩は、話し言葉をそのまま用いた力強い口語自由詩である。「僕の前に道はない僕の後ろに道は出来る」で始まる「道程」は、その調子をよく表す。西洋の美術に触れた経験と、日本の旧習への反発が、この直截な言葉を生んだ。

彫刻家としての目も詩に表れている。物の形や手触りを、触るように具体的に書く。智恵子を詠んだ詩群では、病を得ていく妻を前にした静かな筆致が際立つ。

作品

詩集『道程』(1914年)は、口語自由詩の確立を示す詩集の一つである。萩原朔太郎月に吠える(1917年)と並んで、日本の近代詩が文語から口語へ移った時期を代表する。

智恵子抄(1941年)は、妻智恵子への詩と散文を集めたもので、「レモン哀歌」などが広く読まれている。彫刻では「手」「鯰」などの作品を残し、彫刻家としての評価も高い。翻訳ではロダンの言葉を紹介した『ロダンの言葉』がある。

文学史における立ち位置と影響

光太郎は、口語自由詩を日本語に定着させた詩人の一人である。文語の格調に頼らず、話し言葉の勢いで思想と感情を運べることを示した。

一方、戦争協力の詩を書いた事実と、それに対する戦後の自省は、文学者の戦争責任という問題の代表的な事例として繰り返し論じられてきた。詩集『典型』では、自らを「愚劣の典型」と呼んで責任を引き受けている。作品の達成と戦時の言動をどう併せて評価するかは、今も議論の続く主題である。

作品

登場する文学史