大伴家持

原綴
Ōtomo no Yakamochi
生没
718頃–785
出身
不明(大和・平城京の周辺とみられる)
日本
時代
上代

生涯

718年ごろ、大和の名門、大伴氏に生まれた。大伴氏は、古くから天皇の身辺を武力で守ることを世襲した一族で、朝廷への忠誠を家の誇りとしてきた。父は歌人としても名高い大伴旅人(おおとものたびと)で、旅人が九州の大宰府(だざいふ、九州を統べる役所)の長官を務めた時期には、家持も少年期の一時を筑紫(つくし、現在の福岡県)で過ごしたとみられる。父のもとで、和歌の素養を身につけた。

朝廷の官人として各地に赴任した。とりわけ二十代の末、越中守(えっちゅうのかみ、現在の富山県の長官)として過ごした五年ほどが、家持の歌がもっとも豊かに実った時期にあたる。都を遠く離れた北国の自然を背景に、多くのすぐれた歌を残した。

その後、少納言や兵部少輔(ひょうぶのしょう、軍事を司る役所の次官)などを歴任したが、名門の大伴氏は、藤原氏の台頭のなかで、しだいに勢力を失っていく。晩年は東北の按察使(あぜち、地方を監督する職)・鎮守将軍として、蝦夷(えみし、朝廷に服さない東北の人々)に備える北辺の地に赴いた。785年、その任地で没した。だが死の直後、都で藤原種継(ふじわらのたねつぐ)暗殺事件が起き、大伴一族の者が連座したため、すでに死んでいた家持も官位を剥奪された。名誉が回復されたのは、およそ二十年後のことである。

作風

家持の歌は、繊細で感傷的な叙情に特徴がある。春の光のなかを飛ぶ鳥、庭に咲く花、遠くの山にかかる霞といった、静かな自然の情景に、しみじみとした心のかげりを重ねる。

「うらうらに照れる春日にひばり上がり心悲しも独りし思へば」は、うららかな春の日に、かえって物悲しさがつのる心をうたう。晴れやかな風景と沈んだ心を対比させるこうした歌に、家持の内省的な資質があらわれている。

一方、越中での作には、雄大な自然をうたった長歌(ちょうか、五音と七音を長く繰り返して結ぶ形式の歌)もある。立山(たてやま)の万年雪をたたえた歌などで、北国の風土を格調高く写した。名門の当主として、武門の一族の誇りと、その衰えへの憂いをうたった歌もある。時代の流れのなかで力を失っていく一族の姿が、家持の歌に独特の陰影を与えている。

作品

万葉集

奈良時代に成立した、現存する日本最古の歌集である。全二十巻におよぶこの歌集の、最終的な編纂に家持が深く関わったと考えられている。とりわけ後半の巻十七から巻二十は、日付をもって歌が並ぶ歌日記のような性格が強く、家持自身の記録が編纂の核になったとみる説が有力である。

家持自身の歌は四百七十首あまりが収められ、収録数は歌人のなかで最も多い。越中時代の自然詠や、晩年の内省的な叙情歌が、その中心をなす。巻末に置かれた「新しき年の初めの初春の今日降る雪のいや重(し)け吉事(よごと)」は、759年(天平宝字三年)の元日の歌で、日付の分かる『万葉集』最後の歌にあたる。家持はこの後も二十年以上を生きたが、以後の歌は一首も伝わっていない。この長い沈黙が、大伴氏の凋落した晩年と重ねて語られる。

文学史における立ち位置と影響

家持は、『万葉集』を代表する歌人であると同時に、この歌集を後世に伝えた編纂者として文学史に名を残す。もし家持が最終的な編纂に関わっていなければ、今日の形の『万葉集』は存在しなかった可能性が高い。

歌人としては、万葉集の時代の終わりに立つ。柿本人麻呂らの力強く荘重な歌風から、家持の繊細で感傷的な叙情への流れは、やがて来る『古今和歌集』の優美な歌風を先取りするものだった。古代和歌が次の時代へ移る、その転換点に位置する歌人である。

大伴氏の衰退という時代の翳りを背負い、内省的な叙情をうたった点で、万葉歌人のなかでも近代の読者に近い感受性をもつと評される。とりわけ「うらうらに」の一首は、繊細な心のかげりをうたった歌として、今日も広く親しまれている。

登場する文学史