斎藤茂吉
- 生没
- 1882–1953
- 国
- 日本
- 時代
- 近代
何をやったか
正岡子規が始めた短歌の革新を、実作の水準で完成させた。
『アララギ』の中心的な歌人であり、写生の考え方を、事物の記述から内面の強度へ引き上げた。 見たものを書く、という方法のまま、激しい感情を出す。
歌集『赤光』(一九一三年)が出発点になる。中でも「死にたまふ母」の連作は、危篤の母のもとへ帰郷し、その死を看取るまでを歌った五十九首である。
「のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて足乳根の母は死にたまふなり」——燕を見ている。母の死の場面で、視線が梁の燕に行く。 感情を説明せず、目に入ったものを書く。それが逆に強く働く。
彼は「実相観入」という語で自分の方法を説明した。対象をただ写すのではなく、対象の中に入り込んで、その本質と自分の生命が一つになる地点で歌う、という趣旨である。
生涯
山形の農家に生まれ、東京の医師斎藤家の養子になった。東京帝国大学医学部を卒業した精神科医である。 ウィーンとミュンヘンに留学し、帰国後は青山脳病院の院長を務めた。
病院は火災で焼失し、その再建に長く苦しんだ。 医業と歌業を並行させ続けた生涯である。
戦時中は戦争を支持する歌を多く作り、戦後にその責任が問われた。 疎開先の山形で沈黙の時期を過ごし、晩年の歌集『白き山』が高く評価されている。
息子は作家の北杜夫。 父を描いた評伝『茂吉評伝』四部作を残した。
文学史の中の位置
近代短歌の最高峰とされることが多い。 正岡子規の理論を、島木赤彦・伊藤左千夫らの世代を経て受け取り、歌集の数と質の両面で近代短歌の中心になった。
柿本人麻呂と万葉集の研究にも打ち込み、『柿本人麿』という大部の研究書を書いている。古代の歌を近代の方法で読み直す仕事でもあった。
代表作
『赤光』(一九一三年) — 「死にたまふ母」を含む第一歌集。
『あらたま』(一九二一年)
『白き山』(一九四九年) — 敗戦後、最上川のほとりで作られた晩年の歌集。
『柿本人麿』 — 柿本人麻呂の研究。