斎藤茂吉

原綴
Saitō Mokichi
生没
1882–1953
出身
山形県南村山郡金瓶村(現・上山市)
日本
時代
近代

生涯

1882年、山形の農家に生まれた。15歳で上京し、遠縁にあたる東京の医師・斎藤家の養子になる。医業を継ぐことが条件だった。

東京帝国大学医学部を卒業し、精神科医になった。1917年から約4年間、ウィーンとミュンヘンに留学して研究に従事している。帰国後は養家の青山脳病院の院長を務めた。だが帰国の直前に病院が火災で全焼しており、その再建に長く苦しんだ。医業と歌業を並行させ続けた生涯である。

歌人としては、正岡子規の流れを汲む雑誌『アララギ』に加わり、その中心的な存在になった。1913年、第一歌集『赤光』で歌壇の注目を集める。

戦時中は戦争を支持する歌を多く作り、戦後にその責任が問われた。疎開先の山形で沈黙の時期を過ごしている。晩年の歌集白き山は、この時期に最上川のほとりで作られたもので、高く評価されている。1953年、71歳で死去した。次男は作家の北杜夫で、父を描いた評伝『茂吉評伝』四部作を残している。

作風

茂吉は、正岡子規が始めた「写生」——見たものをそのまま言葉にする方法——を、事物の記述から内面の強度へ引き上げた。見たものを書くという方法のまま、激しい感情を出す。

歌集『赤光』(1913年)の「死にたまふ母」の連作が、その代表である。危篤の母のもとへ帰郷し、その死を看取るまでを歌った59首からなる。「のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて足乳根の母は死にたまふなり」——母の死の場面で、視線は梁にとまる二羽の燕へ行く。悲しみを説明せず、目に入ったものを書く。それが逆に強く働く。

茂吉自身は、この方法を「実相観入(じっそうかんにゅう)」という語で説明した。対象をただ写すのではなく、対象の中に入り込んで、その本質と自分の生命が一つになる地点で歌う、という趣旨である。

語彙には、方言、漢語、古語が混じる。整った雅語だけでなく、耳慣れない語を平気で使う。この粗さが、感情の強度と結びついている。

作品

赤光(1913年)

第一歌集で、「死にたまふ母」の連作を含む。茂吉の出発点であり、代表作でもある。

あらたま(1921年)

第二歌集である。

白き山(1949年)

敗戦後、疎開先の最上川のほとりで作られた晩年の歌集である。

『柿本人麿(Kakinomoto no Hitomaro)』

柿本人麻呂についての大部の研究書である。古代の歌を近代の方法で読み直す仕事でもあった。

文学史における立ち位置と影響

茂吉は近代短歌の最高峰とされることが多い。正岡子規の理論を、島木赤彦・伊藤左千夫らの世代を経て受け取り、歌集の数と質の両面で近代短歌の中心になった。

短歌の系譜のなかでは、写生の方向を極めた側にいる。同じ近代短歌でも、与謝野晶子が情熱と主観の高揚へ向かい、石川啄木が生活と社会を持ち込んだのに対し、茂吉は対象の観察を突き詰めることで感情に達した。

万葉集柿本人麻呂の研究にも打ち込んだ。近代の歌人が古代の歌を実作者の目で読み直した仕事として、国文学の側からも参照されている。

戦時中の戦争協力歌については、戦後に責任が問われた。作品の達成とこの問題をどう扱うかは、永井荷風のような不協力の例と対比しながら論じられてきており、決着していない。

作品

登場する文学史