宗祇

生没
1421–1502
出身
不明(紀伊国または近江国とする説がある)
日本
時代
中世

生涯

1421年に生まれたが、出自ははっきりしない。身分の低い家の出とみられ、若い頃は禅僧として過ごした。三十代を過ぎてから連歌の道に入り、当時の連歌の第一人者たちに学んだ。

やがて京で頭角を現し、宮廷や有力な武家に招かれるようになる。1488年、後鳥羽院ゆかりの水無瀬宮に参じて『水無瀬三吟百韻』を巻いた。応仁の乱で荒れた京を離れ、東国・北陸・九州など各地を旅して連歌を教え広めた。

旅の中で連歌の会を開き、地方の武士や町人に文芸をもたらした点も大きい。1502年、駿河国(現在の静岡県)で旅の途上に世を去った。

作風

は、五・七・五の句と七・七の句を複数人で交互に連ねていく形式である。宗祇はここに二つのものを持ち込んだ。

一つは、和歌に通じる格調と幽玄の趣である。滑稽や機知に流れがちだった連歌に、古典の教養に裏打ちされた深みを与えた。もう一つが、句のつなぎ方(付合)の理論化である。前の句をどう受け、どう転じるか。同じ趣向が続かないよう変化をつける規則を整え、連歌を一つの芸として体系づけた。

作品

『水無瀬三吟百韻』(1488年)は、宗祇と弟子の肖柏(しょうはく)・宗長(そうちょう)の三人が百句を連ねたもので、連歌の代表作とされる。「雪ながら山もと霞む夕べかな」と宗祇が発句を詠み、以下順に付けていく。

連歌集『新撰菟玖波集』(しんせんつくばしゅう)を撰進し、これは勅撰に准じる集として扱われた。連歌が和歌に並ぶ格を得たことを示す出来事である。ほかに古典の注釈や、旅の紀行も残している。

文学史における立ち位置と影響

宗祇は、連歌を最も高い水準へ導いた人物とされる。滑稽な座興から出発した形式を、和歌に匹敵する文芸として確立した。

その影響は次の時代へ及ぶ。連歌はやがて、より自由な趣を取り入れたへ移り、松尾芭蕉がそれを深めていく。芭蕉は宗祇を深く敬い、旅の中で句を詠み続ける生き方そのものを受け継いだ。おくのほそ道の冒頭で、芭蕉が旅に死んだ先人として宗祇の名を挙げているのは、その表れである。