一握の砂
- 作者
- 石川啄木
- 成立
- 1910
- 国
- 日本
- 時代
- 近代
概要
短歌を三行に分けて書いた歌集である。五百五十一首。
それまで短歌は一行で書かれていた。啄木はこれを三行に割った。意味の切れ目で改行することで、どこで息を継ぐかが目に見える。印刷された歌の見え方が変わる。
歌の言葉も変わっている。古語ではなく、日常の言葉で書かれる。
はたらけどはたらけど猶わが生活楽にならざりぢつと手を見る。働いても働いても暮らしが楽にならない。じっと自分の手を見る。 説明も比喩もない。
内容は、貧困、挫折、故郷への思い、そして自分への嫌悪にあたる。
東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる。泣きながら蟹と戯れる、という格好の悪さを、そのまま歌にしている。
啄木の生活が背景にある。岩手の寺の子として生まれ、中学を中退して上京し、詩人になろうとして失敗する。故郷で代用教員になり、免職される。北海道を転々として新聞社を渡り歩き、また上京する。父は寺を追われ、家族は離散し、常に借金があった。
刊行は1910年、啄木二十四歳。その一年半後、二十六歳で肺結核により死ぬ。 第二歌集悲しき玩具は死後に出た。
文学史における評価と影響
近代短歌のなかで最も広く読まれてきた歌集にあたる。
理由の一つは分かりやすさである。同時代の短歌が古語と技巧で書かれていたのに対し、啄木の歌は初めて読む人にも意味が通る。教養がなくても読める短歌が、ここで成立した。
三行書きは形式上の発明である。以後、多くの歌人が試み、いまも用いられる。ただし啄木の後、これが主流になることはなかった。啄木個人の方法として残っている。
主題の面では、生活と貧困を歌に持ち込んだ点が大きい。和歌の伝統では、金がないことも職を失うことも歌の主題ではなかった。啄木はそれを正面から歌った。 この姿勢が、後のプロレタリア短歌や生活派の歌につながる。
同時に、この歌集は自己憐憫だという批判もある。貧しさを歌いながら、そこから抜け出す行動が見えない。啄木自身、借金を返さず、生活の破綻を繰り返した。歌の中の「われ」と実際の啄木の距離が、繰り返し論じられてきた。
啄木の思想は晩年に変わる。大逆事件(1910年)に強い衝撃を受け、社会主義に接近する。評論時代閉塞の現状では、国家が個人を圧殺している状況を分析している。この歌集の刊行と同じ年にあたる。
歌はいまも教科書に載り、故郷の岩手では観光の対象にもなっている。近代の歌人で、これほど一般に知られている例は他にない。
内容
歌集は五つの章に分かれる。「我を愛する歌」「煙」「秋風のこころよさに」「忘れがたき人人」「手套を脱ぐ時」。
「我を愛する歌」が冒頭に置かれる。自分をめぐる歌が集まる。
東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる。
いのちなき砂のかなしさよさらさらと握れば指のあひだより落つ。題の「一握の砂」はここから来ている。
はたらけどはたらけど猶わが生活楽にならざりぢつと手を見る。
友がみなわれよりえらく見ゆる日よ花を買ひ来て妻としたしむ。友人が皆自分より立派に見える日。花を買って帰り、妻と過ごす。
「煙」の章は、故郷を扱う。
ふるさとの山に向ひて言ふことなしふるさとの山はありがたきかな。
やはらかに柳あをめる北上の岸辺目に見ゆ泣けとごとくに。北上川の岸辺が目に浮かぶ。泣けと言うように。
「忘れがたき人人」では、各地で出会った人が歌われる。北海道の同僚、下宿の娘、代用教員時代の生徒。一首ごとに違う人物が現れ、短い記録のように積み重なる。
「手套を脱ぐ時」では、東京での生活が扱われる。校正の仕事、病気、金の工面。
歌の中に、繰り返し「かなし」が出てくる。悲しいというより、どうしようもない、という含みで使われる。この語の使い方が、啄木の歌の調子を決めている。