源実朝

生没
1192–1219
出身
鎌倉(現・神奈川県鎌倉市)
日本
時代
中世

生涯

1192年、鎌倉幕府を開いた源頼朝の次男として鎌倉に生まれた。兄の頼家が追われた後、12歳で三代将軍の座に就く。ただし実権は母の北条政子とその一族が握り、実朝自身が政治を動かすことは少なかった。

京の文化に強く憧れ、藤原定家に和歌の指導を仰いだ。定家から『近代秀歌』を贈られており、書簡を通して学んでいる。宋(中国)へ渡ろうとして大船を造らせたが、船は海に浮かばず失敗に終わった。

1219年、鶴岡八幡宮で右大臣拝賀の式に臨んだ際、兄頼家の子である公暁(くぎょう)に襲われて殺された。28歳だった。源氏の将軍はここで絶える。

作風

同時代の新古今和歌集が技巧と余情を凝らしたのに対し、実朝の歌にはそれとは異なる、直截で力強い調子のものがある。万葉集の歌に学んだためとされ、万葉調と呼ばれる。

「大海の磯もとどろに寄する波割れて砕けて裂けて散るかも」は、その代表である。荒々しい海の力を、動詞を畳みかけて写した。一方で、定家に学んだ技巧的な歌も多く残しており、歌風は一つに定まらない。

作品

家集金槐和歌集(『金槐和歌集』)が伝わる。「金」は鎌倉の鎌の偏、「槐」は大臣を意味する語で、鎌倉右大臣の家集という意味になる。約700首を収め、22歳頃までの作とみられる。

文学史における立ち位置と影響

実朝は、政治的には実権を持たない将軍として非業の死を遂げたが、歌人としては独自の位置を占める。技巧の時代に万葉の直截さを取り戻した点で、後世に高く評価された。

とりわけ近代に入って評価が高まる。正岡子規歌よみに与ふる書で古今集を批判する一方、実朝を「歌人としては上乗の位」と激賞した。写生を説く子規にとって、実朝の飾らない力強さは手本になったのである。近代短歌が万葉を範としたとき、実朝はその先例として呼び出された。

作品

登場する文学史