西行

原綴
Saigyō
生没
1118–1190
出身
京(現・京都市)・推定
本名
佐藤義清
日本
時代
中世

生涯

1118年、代々の武家に生まれた。俗名は佐藤義清(さとうのりきよ)。鳥羽院に仕える北面の武士——上皇の身辺を警護する武門のエリート——であり、家は裕福で、若くして将来を約束された立場にあった。

1140年、23歳で出家した。妻子を捨てて家を出たと伝えられる。理由は分かっていない。失恋、友人の死、無常観、政治的な失望など複数の説が語られてきたが、決め手はない。本人が明かしていないためである。

以後、高野山を拠点に、生涯にわたって旅を続けた。陸奥、四国、伊勢へ足を延ばし、各地で歌を作っている。晩年には、東大寺再建の勧進(寄付集め)のため、69歳で再び陸奥へ旅立った。1190年、河内の弘川寺で73歳で没した。

作風

西行の歌の代名詞は、桜と月である。「願はくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月のころ」——桜の下で春に死にたい、あの二月の満月の頃に。そして実際に、旧暦二月十六日に亡くなった。願った日付とほぼ一致する。この符合は同時代に驚きをもって受け取られ、西行を伝説的な存在にした。

もう一つの軸が、出家しきれない心である。「心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮」——心を捨てたはずの身にも、しみじみとした感情は分かってしまう。出家とは世俗の情を断つことである。にもかかわらず、桜に心が乱れ、月に感じ入る。その矛盾を隠さずに歌う。捨てたはずのものが捨てられていない、という自覚が、この人の歌の中心にある。

歌いぶりは素直で、話しかけるような調子を持つ。同時代の技巧的な歌風とは異なり、飾りが少ない。旅先で見たものと、そのとき動いた心を、そのまま並べる。「年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山」は、老いて再び同じ峠を越える感慨を、技巧に頼らず率直に述べたものである。

作品

山家集

自撰の家集で、約1500首を収める。西行の歌の中心はここにある。

『聞書集(Kikigakishū)』『残集(Zanshū)』にも歌が伝わる。

代表歌として、「願はくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月のころ」「心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮」「年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山」が広く知られる。

文学史における立ち位置と影響

新古今和歌集には、西行の歌が最多の94首採られている。藤原定家ら撰者から格別の扱いを受けたことになる。ただし歌風は新古今の主流とは違う。新古今の技巧的で絵画的な歌に対し、西行の歌は素直で率直である。その異質さが、かえって尊重された。

後世への影響では、松尾芭蕉との関係が最も大きい。芭蕉は西行を最も強く意識した先人であり、おくのほそ道は西行の跡をたどる旅という性格を持つ。歌枕の地を訪ね、五百年前の西行が見たものを見る。旅をしながら詩を作るという型そのものを、芭蕉は西行から受け取った。「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、その貫道する物は一なり」という趣旨の言葉を、芭蕉は書いている。

伝説化も進んだ。説話集『撰集抄』や『西行物語』など、西行を主人公にした物語が中世に多く作られている。上田秋成雨月物語の「白峯」も、西行を語り手に据えたものである。歌人としての評価と、伝説的な人物像の両方が、後世に長く働いた。

作品

登場する文学史