イタリア文学史
イタリア文学史は、一つの選択から始まる。
ダンテ・アリギエーリが神曲を書いたとき、彼はラテン語ではなくトスカーナ方言を使った。当時、格の高い内容はラテン語で書くのが常識である。神学と来世を扱う長篇叙事詩なら、なおさらそうだった。
その常識を破ったことが、ヨーロッパの俗語文学の出発点になる。 二百年後にフランスのデュ・ベレーが「フランス語の擁護と顕揚」を宣言したのと同じ選択を、ダンテははるかに早く、宣言なしに実行した。
だからこの文学史はローマの続きではない。ラテン語文学とイタリア語文学は別の系譜である。 ローマは千年にわたってヨーロッパ全体の書き言葉を提供したが、イタリア文学はそこから独立することで生まれた。
俗語文学の始まり — 十四世紀の三人
十四世紀のトスカーナに、三人の作家が集中して現れる。この三人が、イタリア語という文学言語を事実上作った。
ダンテ・アリギエーリの神曲(一三〇八〜二一年)は、地獄・煉獄・天国を巡る旅を三行韻詩で書いた長篇である。案内人として登場するのがウェルギリウスである。千三百年前のローマの詩人を導き手に選んだことは、古代への敬意と、そこから離れる意志の両方を示している。
ペトラルカはカンツォニエーレでラウラという女性への愛を歌った。ソネットという形式を洗練させ、ヨーロッパ全体に広めた。 イギリスではシェイクスピアのソネットに、フランスではピエール・ド・ロンサールのプレイヤード派につながる。「ペトラルカ主義」という語が生まれるほど、恋愛詩の型を決定した。
ボッカッチョのデカメロン(一三四九〜五三年)は、ペストを逃れた十人が十日間で百の話を語る構成をとる。枠物語の形式であり、ジェフリー・チョーサーのカンタベリー物語が直接この影響下にある。
ルネサンス — 古代の再発見と、政治の現実
十五世紀から十六世紀、イタリアはルネサンスの中心になる。
背景にビザンツからの古典の流入がある。コンスタンティノープル陥落の前後に、ギリシャ語写本と学者がイタリアへ渡った。失われていた古代の文献が読めるようになったことが、この時代の知的興奮の土台にある。
文学で最も影響が大きかったのはマキァヴェッリの君主論(一五三二年)である。政治を道徳から切り離し、権力の維持という観点だけで論じた。 「マキャヴェリズム」という語が生まれ、以後の政治思想の出発点の一つになった。
アリオストの狂えるオルランドは騎士道物語を諧謔をまじえて語り直した長篇詩で、ヨーロッパ中で読まれた。タッソの解放されたエルサレムは十字軍を主題にする。
カスティリオーネの宮廷人は理想的な宮廷人の作法を対話形式で論じた。この書はヨーロッパ各国の宮廷文化の教科書になったという点で、文学の枠を超えた影響を持つ。
17-18世紀 — 停滞と再編
ルネサンス以後、イタリア文学の国際的な存在感は相対的に低下する。政治的な分裂と、外国勢力の支配が続いたことが背景にある。
それでも重要な仕事は生まれた。ヴィーコの新しい学(一七二五年)は、人間の歴史は人間が作ったのだから人間に理解できるという原理から歴史哲学を構想した。当時ほとんど読まれなかったが、十九世紀以降に再評価され、ジェイムズ・ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』の構造にも影響を与えている。
演劇ではゴルドーニが、即興を基本とするコンメディア・デッラルテを改革し、台本を完全に書き切る近代的な喜劇を確立した。
統一運動期・近代 — 国語をどう作るか
十九世紀、イタリア統一運動(リソルジメント)の時代に、文学は国民国家の言語をどう作るかという問題に直面する。
マンゾーニの婚約者(一八二七〜四二年)はこの問題の中心にある。彼は初版の後、フィレンツェの言葉に合わせて全面的に書き直した。 統一されたイタリア語の規範を、小説の実作によって示そうとしたことになる。日本の言文一致と構造が似た問題である。
レオパルディはカンティで、深い悲観を透明な言語で歌った。十九世紀ヨーロッパの詩人の中でも屈指の評価を受けている。
世紀後半にはヴェルガがヴェリズモ(真実主義)を掲げ、シチリアの貧しい漁村を描いた。フランスの自然主義の影響下にあるが、科学的な実験という枠組みより、話し言葉の再現に重点がある。
20世紀以降 — 実験と証言
二十世紀のイタリア文学は、二つの方向で強い達成を見せる。
一つは形式の実験である。 ピランデッロの作者を探す六人の登場人物(一九二一年)では、登場人物が作者を探して舞台に現れる。演劇の約束事そのものを主題にしたこの作品は、二十世紀演劇の転換点になった。イタロ・ズヴェーヴォのゼーノの意識は、精神分析の枠組みを用いた内面小説である。
イタロ・カルヴィーノは見えない都市などで、物語の構造を組み替える実験を続けた。ウンベルト・エーコは記号論の学者として出発し、薔薇の名前で中世の修道院を舞台にした推理小説を書いて世界的な読者を得た。
もう一つは証言の文学である。 プリーモ・レーヴィはアウシュヴィッツからの生還者で、これが人間か(一九四七年)に収容所の経験を書いた。感情を抑えた明晰な記述が特徴で、化学者としての訓練が文体に現れているとされる。
ノーベル文学賞はカルドゥッチ(一九〇六年)、ピランデッロ(一九三四年)、エウジェニオ・モンターレ(一九七五年)らが受けている。近年はエレナ・フェッランテの作品が国際的に広く読まれているが、この作家は正体を公表していない。
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イタリア文学史を貫くのは、俗語で書くという選択と、その言語をどう鍛えるかという問題である。ダンテの決断から、マンゾーニの書き直しまで、五百年にわたって同じ問いが形を変えて続いた。
どこか一つに降りるなら俗語文学の始まりから。ダンテ・ペトラルカ・ボッカッチョの三人が、ヨーロッパの文学の型をいくつも作っている。
先行するのはローマだが、その関係は継承ではなく独立である。