マンゾーニ

- 原綴
- Alessandro Manzoni
- 生没
- 1785–1873
- 出身
- ミラノ
- 国
- イタリア
- 時代
- 統一運動期・近代
生涯
1785年、ミラノの貴族の家に生まれた。母は、拷問と死刑の廃止を主張した啓蒙思想家ベッカリーアの娘である。両親の不仲によって幼くして寄宿学校に預けられ、孤独な少年期を送った。
若い頃をパリで過ごした。啓蒙思想の影響を受け、当初は神を信じない立場にいる。だが1810年、妻がカルヴァン派からカトリックに改宗したのをきっかけに、自らも回心した。この回心が以後の生涯と作品を決めることになる。
ミラノに戻り、著述に専念した。当時イタリアはまだ統一されておらず、北イタリアはオーストリアの支配下にあった。マンゾーニは統一と独立を願う立場に立っている。
生涯の大仕事が長篇小説『いいなづけ』だった。1827年に初版を刊行する。だが本人は満足しなかった。使った言葉が気に入らなかったのである。当時のイタリアには全土で通じる話し言葉がなく、書き言葉は古典に倣った文語だった。マンゾーニはフィレンツェに滞在して現地の話し言葉を学び、小説の全体を書き直す。改訂版は1840年から42年にかけて刊行された。
私生活では妻と多くの子に先立たれている。晩年は統一イタリアの上院議員に任じられ、国民的な作家として遇された。1873年、八十八歳で死去する。ヴェルディはその死を悼んでレクイエムを作曲した。
作風
『いいなづけ』の舞台は17世紀、スペインの支配下にある北イタリアである。主人公は貧しい絹織物の職人レンツォと、その婚約者ルチーア。二人は結婚しようとするが、その土地を支配する領主ドン・ロドリーゴがルチーアに目をつけ、結婚を妨害する。頼るべき司祭は権力を恐れて式を拒む。二人は引き裂かれ、それぞれ別の場所へ逃げることになる。
この単純な筋を通して、17世紀イタリアの社会全体が描かれる。腐敗した権力、何もできない庶民、飢饉とパンを求める暴動。そしてミラノを襲ったペストの大流行。ペストの描写はとくに知られており、死者が次々に運び出され、社会の秩序が崩れていく光景が克明に書かれる。
歴史の扱い方が独特である。マンゾーニはスコットの歴史小説を学んだが、そこから別の方向へ進んだ。王侯や英雄ではなく、名前も残らない庶民を主人公にしたのである。歴史に翻弄される側から時代を見る、という書き方になる。
宗教的な確信が全体を貫いている。人間の悪と苦難のなかにも神の導きが働いている、という信頼である。この信仰が、暗い時代の物語に救いを与えている。人をさらい人を殺してきた「無名氏」と呼ばれる男が、ルチーアと向き合ったことをきっかけに回心する場面は、その思想が最もはっきり出たところにあたる。
そして言葉の問題がある。どの言葉で書くべきか、という問いに長く苦しんだ。当時のイタリアは地方ごとに方言が違い、共通の話し言葉がない。マンゾーニはフィレンツェの教養層の話し言葉を規範に選び、小説全体をその言葉で書き直した。この作業を本人は「アルノ川で洗濯をする」と呼んでいる。アルノ川はフィレンツェを流れる川である。
作品
『いいなづけ(I Promessi Sposi)』(初版1827年、決定版1840〜42年)
代表作である。17世紀の北イタリアを舞台に、引き裂かれた恋人たちの苦難を描く。イタリア近代小説の出発点にあたる。
『聖歌(Inni Sacri)』
宗教的な詩である。
「五月五日(Il Cinque Maggio)」(1821年)はナポレオンの死を悼んだ詩にあたる。ゲーテがこれを絶賛し、自らドイツ語に訳した。
悲劇『カルマニョーラ伯(Il Conte di Carmagnola)』『アデルキ(Adelchi)』も書いた。劇は一日・一場所・一筋に収めるという古典主義の規則をあえて破っており、イタリアのロマン主義演劇の試みにあたる。
日本語では『いいなづけ』が読める。
文学史における立ち位置と影響
イタリア近代文学の出発点に立つ。
『いいなづけ』はイタリア文学で最も重要な小説とされる。ダンテの神曲と並んで、イタリア人が学校で必ず読む古典にあたる。
言語における功績が決定的だった。1861年にイタリアが統一されたとき、共通のイタリア語を話せる国民はごく一部にすぎない。大多数はそれぞれの方言で暮らしていた。マンゾーニの小説が示した言葉は、その統一のための模範として機能する。一つの文学作品が国の標準語の形成にこれほど直接に関わった例は、他にほとんどない。
庶民を主人公にした歴史小説としても独自の位置を占める。スコットに学びながら、英雄ではなく無名の人々を歴史の中心に置いた。この視点は後の歴史小説に影響を与えている。
イタリア統一運動のなかでの意味も大きい。オーストリアの支配下で書かれたこの小説は、外国の支配に苦しむ人々の姿を描いていた。独立を求める側にとって、この作品は国民としての意識を育てるものだった。
ヴェルディが死に際してレクイエムを作曲したことも、その国民的な地位を示している。
日本での受容は翻訳を通じて進んだ。イタリア近代小説の代表として位置づけられている。