自然主義とは? 科学を手本に、遺伝と環境から人間を描いた文学
- 発祥
- フランス
- 年代
- 1870–1900
自然主義は、19世紀後半のフランスでゾラを中心に唱えられた文学の立場である。人間の性格や運命を、本人の自由な選択の結果ではなく、親から受け継いだ性質(遺伝)と、育った環境によって決まっていく結果としてとらえ、そのさまを科学者のように冷静に観察して書こうとした。写実主義が同時代の社会をありのままに描いたのを受け継ぎ、それをさらに徹底させたものである。
自然主義が生まれた背景
なぜ人間をこのようにとらえたのか。背景には、19世紀の科学の勢いがある。
この頃の科学は、世界のあらゆることを原因と結果の連鎖で説明しようとしていた。物が落ちるのも、生き物の姿が変わっていくのも、病気が起こるのも、偶然ではなく原因があって決まる、と考える。ならば人間も自然の一部である以上、同じはずだ——人の性格や一生もまた、原因があって決まる結果ではないか。そう考えたとき、その原因にあたるのが遺伝と環境だった。たとえば、酒におぼれやすい体質を受け継ぎ、貧しく荒れた場所で育った人間は、本人が努力しようとしまいと、ほぼその条件どおりに崩れていく。人間をこのように、生まれと環境という条件によって決まる存在とみる見方をという。自然主義は、この決定論を土台にしている。
ゾラの理論と『ルーゴン・マッカール叢書』
ゾラは、この決定論を小説の書き方そのものに変えた。手本にしたのは医学である。当時の医学は、患者をただ観察するのではなく、条件を変えて結果を確かめる実験の科学になろうとしていた(生理学者クロード・ベルナールの『実験医学序説』が広く読まれていた)。ゾラはこれをまねて、小説家も、ある遺伝と環境を与えた人物を作品の中に置き、その人物が最後にどうなるかを見せればよいと考えた。人物は作者の都合では動かず、与えられた条件が決めたとおりに動く。これを論じたのが評論実験小説論(1880年)である。
この方法を大きな規模で実行したのが『ルーゴン・マッカール叢書』全20巻(1871-93年)である。副題は「第二帝政期の一家族の自然的および社会的歴史」。下のフランスを舞台に、ルーゴン家とマッカール家という一族の五世代を追い、先祖から受け継がれた素質——飲酒への傾きや神経の弱さ——が、それぞれの子孫の環境の中でどう噴き出すかを、一冊ずつ描いていった。

代表作
叢書の中でも、次の作品が広く読まれた。
| 作品 | 年 | 扱ったもの |
|---|---|---|
| テレーズ・ラカン | 1867 | 叢書の前に書かれた。姦通と殺人を、良心の問題ではなく神経と血の反応として描いた |
| 居酒屋 | 1877 | パリの労働者街と、そこを蝕む飲酒。地の文にまで労働者の俗語を持ち込んで非難を浴び、同時に代表作になった |
| ナナ | 1880 | 高級娼婦の栄華と転落を通して、第二帝政の繁栄の裏側を描いた |
| ジェルミナール | 1885 | 北部の炭鉱で起きたストライキ。労働者の団結と敗北を正面から描き、社会を主題にした小説の頂点とされる |
遺伝理論を土台にした部分は、今日の科学では支持されていない。だが作品の力は、その理論とは別に残った。とりわけジェルミナールは、炭鉱労働者の生活と闘争を描いて、後の労働文学の古典になっている。
メダン集団と短編小説
ゾラの周りには若い作家が集まった。パリ郊外メダンにあるゾラの家に出入りしたことから、のちにメダン集団と呼ばれる。1880年、この仲間が普仏戦争を題材にした短編を持ち寄り、作品集『メダンの夕べ』を出した。中でもモーパッサンの脂肪の塊が際立って高く評価され、モーパッサンはここから短編の名手として世に出る。
運動の崩壊
運動は1880年代のうちに、内側から崩れ始めた。メダン集団の一人ユイスマンスは、1884年の小説『さかしま(À rebours)』で方向を変える。社会の観察をやめ、人工的で洗練された美の世界に閉じこもる主人公を描いたこの作品は、世紀末のや象徴主義の出発点の一つになった。
1887年には、ゾラの弟子筋にあたる五人の若い作家が、農民を描いた叢書の一編『大地(La Terre)』を露骨に過ぎるとして公然と批判する声明を新聞に出した(「五人宣言」)。師の方法そのものへの反旗であり、運動が一枚岩ではなかったことを示している。
ドイツへの広がり
自然主義はフランスにとどまらなかった。ドイツではハウプトマンが戯曲『織工(Die Weber)』(1892年)で、1844年にシュレジエン(現在のポーランド南西部)で起きた織工の一揆を舞台に載せた。特定の主人公を立てず、貧困にあえぐ集団そのものを主役にする自然主義の演劇である。方言や貧しさの細部を舞台にそのまま持ち込む方法が、小説から演劇へも及んだ。
ドレフュス事件
1898年、ゾラはドレフュス事件に介入した。ユダヤ系の軍人アルフレド・ドレフュスが、証拠の乏しいままスパイとされて流刑になった冤罪事件である。ゾラは「私は弾劾する(J'accuse…!)」と題した公開状を新聞の一面に載せ、軍と国家を名指しで告発した。名誉毀損に問われて有罪となり、一時イギリスへ亡命する。作家が自分の名声を賭けて具体的な不正と戦うこの型は、18世紀のヴォルテールによるカラス事件(啓蒙思想)にさかのぼり、ここで近代的な形をとった。
日本での反転
「自然主義」という同じ名前で呼ばれながら、フランスと日本では、その中身がほとんど逆になった。日本文学史でとくに注意を要する点である。
| フランスの自然主義 | 日本の自然主義 | |
|---|---|---|
| 模範にしたもの | 自然科学・実験 | なし。作者自身の告白 |
| 書く対象 | 社会・階級・遺伝 | 作者の身辺と内面 |
| 行き着いた先 | 社会小説 | 私小説 |
明治30年代(1900年前後)にゾラらの理論が伝わったとき、受け取られ方が違った。フランスが科学を模範に社会を書こうとしたのに対し、日本では田山花袋の蒲団(1907年)以降、作者が自分の身辺と内面を隠さず書くことが「ありのまま」だと理解された。島崎藤村の破戒(1906年)は、被差別部落出身の青年を主人公にしたまだ社会的な作品だったが、以後の主流は作者自身の告白へ傾いていく。同じ時期に国木田独歩が、自然と人生を静かに見つめる叙情的な短編を書いた。
こうして、作者自身の生活をそのまま素材にする私小説という、日本に固有の形式が生まれた。名前は同じでも系譜としては別物であり、なぜこの反転が起きたのかは、日本近代文学研究の大きな主題で、定説は一つに定まっていない(日本近代)。