薔薇の名前
- 原題
- Il Nome della Rosa
- 作者
- ウンベルト・エーコ
- 成立
- 1980
- 国
- イタリア
- 時代
- 20世紀以降
概要
1980年に刊行された長篇小説である。当時エーコは48歳で、記号論の研究者として知られていたが、小説を書くのは初めてだった。
舞台は1327年、北イタリアの山中にあるベネディクト会修道院。七日間にわたって修道士が次々に死ぬ。調査にあたるのは、イングランド出身のフランチェスコ会修道士バスカヴィルのウィリアムと、その弟子である見習修道士アドソである。
語り手は年老いたアドソで、若い日の出来事を回想して書いている。推理小説の形式をとりながら、扱われるのは中世の神学論争と、笑いをめぐる問題である。
修道院には当時最大の図書館があり、迷宮の構造を持つ。閲覧は司書の許可制で、蔵書目録の全体は司書しか知らない。事件はこの図書館をめぐって起きる。
背景には、実在の対立がある。教皇ヨハネス二十二世と、清貧を説くフランチェスコ会の一派、そして神聖ローマ皇帝の三者の争いで、修道院はその会談の場として選ばれていた。
エーコはボローニャ大学の記号論の教授で、中世の美学を専門としていた。小説を書いた動機について、後に付した『「薔薇の名前」覚書』で説明している。修道士を毒殺したいという思いつきから始まったと述べ、物語を成り立たせるために中世の資料を大量に読み直したことを記す。
作中の設定は、実在の人物や事物に対応する。ウィリアムの名は、オッカムの剃刀で知られる哲学者ウィリアム・オッカムと、シャーロック・ホームズの作品『バスカヴィル家の犬』を合わせたものである。ベルナール・ギーは実在の異端審問官で、審問の手引きを著した。清貧論争も史実にもとづく。
失われた喜劇論という設定は、アリストテレスの詩学の第二巻が現存しないという事実にもとづく。この巻が実際に何を論じていたかは分かっていない。
盲目の司書ホルヘの名は、アルゼンチンの作家ホルヘ・ルイス・ボルヘスに由来する。ボルヘスは国立図書館長を務め、晩年に失明した。迷宮と書物を主題にした短篇を多く書いており、図書館の構造の着想もその作品群から来ている。
刊行後、イタリアで異例の売れ行きとなり、各国語に訳されて世界的な話題作になった。1986年にジャン=ジャック・アノー監督で映画化されている。
文学史における評価と影響
ポストモダン文学の代表例として扱われることが多い。既存のジャンルの型を借り、そこに引用と参照を大量に埋め込み、娯楽として読める形にしながら学問的な主題を扱う。エーコ自身、覚書の中で、現代の作家は過去がすべて語られてしまった状況に置かれており、引用によってしか語れないと述べている。
推理小説としての構造は、意図的に裏切られる。ウィリアムは黙示録の記述に沿って犯行が行われていると推理し、その推理によって犯人にたどり着く。だが実際には、犯人はそのような計画を立てていなかった。誤った推理が正しい結論に達するという結末は、探偵が理性で真実を明らかにするという型そのものへの批判にあたる。
中世の扱いも特徴的である。暗黒の時代という通俗的な像を退け、緻密な学問、激しい論争、政治的な駆け引きが行われていた時代として描く。エーコは、現代の問題を中世の衣装で語ったのではなく、中世そのものを描いたと述べている。
主題としては、書物と権力の関係が中心にある。読ませないことによって支配する仕組み、知を独占する組織、そして書物を守るために書物を焼く逆説。ホルヘは書物を最も愛する人物でありながら、それを誰にも読ませない。
題名については、著者自身が説明を避けている。読者が自由に解釈できるよう、内容を限定しない題を選んだと覚書に記す。末尾のラテン語の一句は12世紀の詩から採られたもので、これも解釈が分かれている。
日本でも訳が読める。ラテン語の引用が随所にあり、注が付されている。
あらすじ
1327年11月、ウィリアムとアドソが修道院に到着する。院長は、若い装飾写本画家アデルモが崖下で死体で見つかった件の調査を依頼する。
翌日、ギリシア語の翻訳者ウェナンティウスが、豚の血を溜めた甕の中で死んでいるのが見つかる。ウィリアムは、修道士たちが禁書とされる何かの書物をめぐって動いていることに気づく。図書館への立ち入りは禁じられているが、二人は夜間に侵入する。図書館は塔の最上階にあり、部屋が幾何学的に配置され、鏡と香草の仕掛けで侵入者を惑わせる構造になっている。
助手のベレンガーリオが浴槽で死ぬ。舌と指先が黒く染まっている。同じ痕跡がウェナンティウスにもあった。
会談の一行が到着する。教皇側の使節には異端審問官ベルナール・ギーがいる。教会が財産を持つべきかをめぐる討論が行われるが、決裂する。ギーは、修道院の厨房で娘と関係を持ったアドソの件とは別に、貧しい娘と食物を交換していた助修士サルヴァトーレと娘を捕らえ、拷問して異端と魔女の自白を引き出す。ウィリアムは、審問が真実を求めていないことを見て取る。
薬草係のセヴェリーノが天球儀で頭を殴られて死ぬ。図書館の司書マラキーアも、舌を黒くして倒れる。
ウィリアムは、鍵がアリストテレスの詩学の失われた第二巻——喜劇論——にあることを突き止める。図書館の奥の部屋に隠された唯一の写本を、盲目の老修道士ホルヘが守っていた。ホルヘは、笑いは恐れを消し、恐れがなければ信仰は保てないと考えている。笑いを哲学的に正当化する書が世に出れば、世界の秩序が崩れるという判断から、この本を読もうとした者を殺してきた。手段は、書物の頁の隅に毒を塗ることだった。頁をめくるために指を舐めた者が中毒死する。
ウィリアムに追い詰められたホルヘは、自ら毒の塗られた頁を食い破り、ランプを倒す。火は図書館に燃え移り、修道院全体が焼ける。三日燃え続け、すべて失われる。
数十年後、老いたアドソは廃墟を訪ね、焼け残った断片を拾い集める。回想はラテン語の一句で閉じられる。かつての薔薇は名だけで存在し、われわれの手には虚しい名だけが残る、という趣旨である。