これが人間か

原題
Se questo e un uomo
作者
プリーモ・レーヴィ
成立
1947
イタリア
時代
20世紀以降

概要

1947年に刊行された、アウシュヴィッツ収容所での体験の記録である。レーヴィは1943年にイタリアで反ファシズムのパルチザンに加わり、逮捕され、ユダヤ人であることを申告して1944年2月に収容所へ送られた。解放されるまで十一か月を過ごした。

書き方は感情を排している。著者は化学者であり、序文でも、自分は事実を提示するのであって新しい告発をするつもりはないと述べている。虐待の場面を煽らず、加害者を罵らず、観察したことを順に記す。

主題は、人間から人間としての条件を組織的に剥ぎ取っていく仕組みである。名前を奪って番号を刺青し、髪を剃り、衣服を取り上げ、言葉の通じない環境に置き、飢えを恒常化させる。その状態で人がどう振る舞うかを、著者は自分自身も含めて記録する。

原題は「これが人間であるならば」という条件節で、巻頭に置かれた詩の一句である。この詩は、暖かい家で暮らす読者に向かって、泥の中で働き、パンの半切れをめぐって死ぬ者が人間かどうかを考えよと迫る。

帰還後すぐに書き始められた。著者は、収容所にいる間から、生きて帰ったら語らねばならないという意識があり、それが生きる支えの一つだったと述べている。1946年から翌年にかけて執筆した。

出版は難航した。大手の出版社に断られ、1947年に小さな出版社から二千五百部が刊行されたが、千部近くが売れ残り、洪水で倉庫ごと失われた。戦後まもない時期のイタリアでは、収容所の話は求められていなかった。

転機は1958年で、エイナウディ社から改訂版が出て広く読まれるようになる。各国語に訳され、以後は代表的な証言の一つとして扱われる。

著者は帰国後、塗料会社の化学者として働き続けた。文筆は職業としておらず、勤務のかたわら書いていた。続篇にあたる『休戦(La tregua)』は解放後の帰路を扱い、1963年に刊行された。

1986年、最後の著作『溺れる者と救われる者(I sommersi e i salvati)』を刊行する。生き延びた者が抱える罪責感、記憶の変質、加害と被害の間にある「灰色の領域」を論じたもので、四十年後の考察にあたる。翌1987年、自宅の階段の吹き抜けで死去した。自殺とする見方が有力だが、事故の可能性も指摘され、決着していない。

文学史における評価と影響

ホロコーストの証言として、最も広く読まれてきた作品の一つである。同種の記録は数多いが、この作品の位置を決めているのは書き方にある。告発の言葉を使わず、観察と分析で進める。 化学者としての訓練が、この文体を支えているとしばしば指摘される。

生存者の道徳をめぐる問題を、早い時期に正面から扱った点も大きい。生き延びたのは善良な者ではなかったという記述、囚人の中に置かれた序列の記述は、被害者を一枚岩の集団として描かない。この視点は『溺れる者と救われる者』でさらに展開され、証言そのものの限界にまで及ぶ。本当に底まで見た者は死んでおり、語れる自分は完全な証人ではないという認識が、そこで示される。

証言と文学の関係についても、この作品は議論の対象になってきた。事実の記録でありながら、章の構成、引用、比喩の選択には明らかな設計がある。ダンテの詩句を引く章はその例で、地獄の描写を借りることで、収容所を既存の言葉に接続している。事実の記録に文学の形式を用いることの是非は、証言文学一般をめぐる論点として残る。

日本でも訳が読める。教育の場で用いられることが多く、続篇と最後の著作を併せて読むと、著者の考えの推移が追える。

内容

1943年12月、二十四歳のレーヴィはパルチザンとして捕らえられる。ファシスト政権下のイタリアで、ユダヤ人として収容所に送られるほうが、パルチザンとして即決処刑されるよりましだと判断し、身分を申告した。1944年2月、六百五十人とともに貨車でアウシュヴィッツへ送られる。

到着の夜、選別が行われる。労働可能とされたのは男性九十六人と女性二十九人だけで、残りはその夜のうちにガス室へ送られた。生き延びた者は服を脱がされ、髪を剃られ、左腕に番号を刺青される。以後、番号が名前になる。

収容所の仕組みが記される。言語はドイツ語で、命令が理解できなければ殴られる。イタリア人は少数で、通訳もいない。食事は薄いスープとパンで、常に飢えている。パンは通貨であり、あらゆる取引の単位になる。 靴が合わないことが致命的で、傷が化膿すれば労働に耐えられず、選別で送られる。

収容所内には序列がある。囚人の中から選ばれた班長、通訳、厨房係。ドイツ人犯罪者、政治犯、ユダヤ人という区分があり、ユダヤ人は最下層に置かれる。この序列を、著者は灰色の領域という後年の言い方で扱うことになる。加害と被害の境界に置かれた人々である。

生き延びる者と沈む者が分けられていく。著者は「溺れる者と救われる者」という章で、規則に従うだけの者が最も早く死ぬこと、盗み、取引し、規則の裏をかける者が残ることを記す。道徳的に優れた者が生き残るのではない。

化学者であることが著者を救う。化学の試験に合格し、ブナ工場の実験室で働く配置を得た。屋内の作業であり、冬を越せる可能性が上がる。

友人となったピッコロという青年に、イタリア語を教える場面が置かれる。スープを取りに行く道すがら、ダンテ神曲の地獄篇のオデュッセウスの一節を思い出そうとする。獣ではなく人として生きるために生まれたのだという趣旨の詩句を伝えようとして、続きが思い出せない。この短い時間が、収容所の外の世界と結びついた瞬間として記される。

1945年1月、赤軍の接近に伴い、ドイツ軍は歩ける囚人を連れて撤退する。著者は猩紅熱で病棟にいたため残された。八百人ほどの病人が置き去りにされ、暖房も食料もない十日間を過ごす。連れて行かれた者のほとんどは行軍の途上で死んだ。残された者の多くも死ぬ。著者は同室の二人と協力してストーブを直し、水と食料を確保し、生き延びる。1月27日、ソ連軍が到着する。

作者

登場する文学史