エウジェニオ・モンターレ
- 原綴
- Eugenio Montale
- 生没
- 1896–1981
- 出身
- ジェノヴァ(北イタリア・リグーリア州)
- 国
- イタリア
- 時代
- 20世紀以降
生涯
1896年、ジェノヴァの商家に生まれた。病弱だったため正規の高等教育を受けていない。一時期オペラ歌手を志して声楽を学んでおり、その素養が後の詩のリズムに生きている。
少年期の夏を、リグーリア海岸の村で過ごした。乾いた岩、強い日差し、海。この風景が生涯の詩のイメージの中心になる。
第一次大戦に従軍した後、フィレンツェで文学の活動を始めた。1925年、最初の詩集『イカの骨』を刊行する。
同じ年、ファシズムに反対する知識人の宣言に署名した。以後この立場を変えていない。1929年からフィレンツェの図書館の館長を務めたが、1938年、ファシスト党への入党を拒んだために解任される。以後は翻訳などで生計を立てた。英語からの翻訳が多く、シェイクスピアやメルヴィルを訳している。
戦後はミラノの新聞社に勤めた。音楽評論も書いている。詩人としての名声は次第に確立し、1967年に終身上院議員に任じられた。1975年にノーベル文学賞を受賞し、1981年に死去する。八十四歳だった。
作風
イタリアの詩には、ダンヌンツィオに代表される豪奢で雄弁な伝統があった。モンターレはそれを退けた。飾りを削ぎ落とし、乾いた事物だけを置く。
最初の詩集の題名『イカの骨』が、その姿勢を表している。イカの骨とは、浜に打ち上げられた白く乾いた殻のことである。美しくもなく役にも立たない残骸にあたる。モンターレはそこに詩を見た。リグーリアの灼けた岩、蝉の声、割れた瓶の破片。こうした貧しい事物が詩の風景を作る。
よく知られた一篇で、詩人は読者にこう言う。世界を開く鍵になる言葉を私に求めるな。示せるのは、我々が何で「ない」か、何を「望まない」か、それだけだ。積極的な答えを述べることを拒み、否定の形でしか語らない。この構えがその詩の根にある。
だが暗い世界に時折光が差す。日常のなかで突然何かが開ける瞬間が、繰り返し詩に現れる。壁の亀裂の向こうに別の世界が垣間見える。それが救いなのか錯覚なのかは書かれない。この束の間の可能性が、詩を絶望から救っている。
女性の姿も繰り返し現れる。「クリツィア」と呼ばれる女性は後期の詩の中心にいる。実在のアメリカ人研究者がもとになっているが、詩のなかでは救いをもたらす天使のような存在として書かれる。ダンテのベアトリーチェの系譜にある、と論じられてきた。
詩は難解である。イメージが飛び、意味が定まらない。この傾向はという呼び名で括られることが多い。ただし本人はその分類を必ずしも受け入れていない。ファシズムの検閲下で直接には書けなかったことが、この難解さの背景にあるとも指摘される。
作品
『イカの骨(Ossi di seppia)』(1925年)
最初の詩集である。リグーリアの乾いた風景を背景に、その詩の世界を確立した。
『機会(Le occasioni)』(1939年)
二冊目にあたる。「クリツィア」の姿がここから現れる。
『嵐など(La bufera e altro)』(1956年)
戦争とその後の時代を背景にした詩集である。題名の「嵐」は戦争と歴史の暴力を指す。三冊のなかで頂点とされる。
『ゼニア(Xenia)』(1966年)
亡くなった妻を悼む連作である。日常の口調で書かれ、初期の硬い詩とは違う親密さを持つ。妻の遺した小さな癖や失くし物が、そのまま詩になっている。
日本語では詩の抄訳がある。
文学史における立ち位置と影響
20世紀イタリア詩を代表する詩人である。ウンガレッティ、クァジーモドと並んでその時代の詩を担った。
雄弁を拒んだという点で、その位置は決定的である。ダンヌンツィオ流の絢爛な詩の後で、どうやって詩を書くか。モンターレは簡潔さと硬さでそれに答えた。この方向が以後のイタリア詩の規範になる。
抵抗の詩人としても記憶されている。政治的な詩を声高に書いたわけではない。だが党への入党を拒んで職を失い、宣伝の言葉が溢れる時代に、その正反対の切り詰めた詩を書き続けた。
レオパルディの系譜に置かれることが多い。徹底した悲観と、澄み切った言葉。この組み合わせにおいて二人は通じている。モンターレ自身レオパルディを深く読んでいた。
ヨーロッパのモダニズム詩とも呼応する。T・S・エリオットとしばしば比較される。荒廃した世界を、断片的なイメージを並べることで示す、という方法が共通している。
1975年のノーベル文学賞は、幻想を持たない人生観を詩にしたことへの評価だった。
日本での受容は限られてきたが、20世紀イタリア詩の代表として翻訳と研究がなされている。