宮廷人
- 原題
- Il Libro del Cortegiano
- 作者
- カスティリオーネ
- 成立
- 1528
- 国
- イタリア
- 時代
- ルネサンス
概要
1528年にヴェネツィアで刊行された対話篇である。全四巻。
舞台は1507年3月、ウルビーノ公の宮廷。実在の人物たちが夜ごと公妃の部屋に集まり、余興として議論を行う。主題は、完璧な宮廷人とはどのような人物かである。架空の討論ではなく、実在の人物に議論させる形式をとり、著者自身は当時ローマに滞在していたことにして、この場にいなかった設定になっている。
議論は結論を出すことを目的としない。誰かが定義を示すと別の者が反論し、冗談が挟まり、話が逸れる。四夜のうちに、身体の技芸、話し方、機知、絵画と音楽の教養、女性の資質、君主への助言、そして愛について論じられる。
宮廷人という語は、君主に仕える廷臣を指す。ルネサンス期のイタリアでは、小国が分立し、それぞれの宮廷が政治と文化の中心だった。そこで生きるための振る舞い方を、初めて体系的に論じた書物にあたる。
カスティリオーネは1478年、マントヴァ近郊の生まれ。外交官として各地の宮廷に仕えた。1504年から1513年までウルビーノ公に仕え、この期間の経験が作品の土台になっている。
執筆は1513年頃から始まり、二十年近く改稿が続いた。写本の形で回覧されており、無断で刊行される恐れが生じたため、1528年に自ら刊行した。翌1529年、スペインで死去した。
作中の舞台は1507年に設定されているが、登場人物の多くは執筆中に死去した。序文で著者は、この人々がすでにいないことに触れており、失われた宮廷への追憶が全体の調子を作っている。 ウルビーノ宮廷そのものも、その後の戦乱で往時の姿を失った。
刊行後の広まりは早い。16世紀のうちにスペイン語、フランス語、英語、ドイツ語に訳された。英訳は1561年のトマス・ホビー訳で、エリザベス朝の宮廷で読まれた。
文学史における評価と影響
作法書というジャンルを確立した書物である。以後のヨーロッパで、振る舞いと会話の技術を論じる書物が大量に書かれ、その系譜は近代の礼儀作法書にまで続く。
同じ時期のマキァヴェッリの君主論としばしば並べられる。どちらも権力の場で生き延びる術を論じるが、立場が逆である。 マキァヴェッリは支配する側に、カスティリオーネは仕える側に助言する。両者に共通するのは、外に見せる姿と内実を切り離して扱う点にある。君主は慈悲深く見えればよく、宮廷人は努力を隠さねばならない。
スプレッツァトゥーラの概念は、この書物を離れて用いられる。技巧を隠す技巧という逆説は、芸術論でも引かれ、後の「自然らしさ」をめぐる議論の源流の一つになった。
英文学への影響も大きい。ホビー訳を通じて、宮廷人の理想像はエリザベス朝の文人に共有された。シドニーは武人にして詩人という点でこの理想を体現した人物とされ、スペンサーの妖精の女王も紳士の育成を目的に掲げている。シェイクスピアの喜劇の機知に富んだ会話も、この系譜に置いて論じられることがある。
第三巻の女性論は、ルネサンス期の女性をめぐる論争の資料として参照される。当時の議論の水準と限界の両方が示されている。
日本でも訳が読める。対話の形式が長く、通読には忍耐を要する。
内容
第一巻では、宮廷人の基礎が論じられる。生まれの良さ、武芸の卓越、身体の鍛錬。同時に、文芸の教養も必要とされる。武人であって学識も持つべきだという主張と、武と文のどちらが上かをめぐる議論が交わされる。
ここで、この書物の最も有名な概念が提示される。スプレッツァトゥーラである。訳しにくい語で、「無造作」「さりげなさ」などと訳される。何事も、技巧を凝らしていることを隠し、努力せずにできているように見せる態度を指す。反対語は「わざとらしさ」であり、苦労が見えることは宮廷人にとって最大の失点になる。歌う前に咳払いして準備を見せてはならない、と例が挙げられる。
第二巻は、実際の振る舞いを扱う。いつ、誰の前で、どう振る舞うか。服装、冗談の使い方、目立ちすぎない工夫。ここでは機知と冗談の分類に多くの紙幅が割かれ、実例が並ぶ。
第三巻は、宮廷の女性を主題とする。宮廷婦人が備えるべき資質が論じられ、その過程で、女性が男性に劣るかどうかをめぐる議論になる。参加者の一人が女性を貶める発言を繰り返し、別の参加者が歴史上の女性の例を挙げて反駁する。男性の集まりの中で、女性擁護の議論が長く展開される。
第四巻は調子が変わる。宮廷人が身につけた技術は何のためにあるのかが問われ、君主を正しい方向に導くためだという答えが示される。君主は追従に囲まれて真実を聞けなくなるので、宮廷人は信頼を得たうえで諫めなければならない。
最後に、ピエトロ・ベンボが愛について長い演説を行う。老いた宮廷人は肉体の愛から離れ、個々の美を通じて普遍的な美へ、さらに神的な美へ上昇すべきだと説く。プラトンの饗宴を下敷きにした議論で、語り終えたとき窓の外はすでに夜明けになっている。