新しい学
- 原題
- Scienza Nuova
- 作者
- ヴィーコ
- 成立
- 1725
- 国
- イタリア
- 時代
- 17-18世紀
概要
1725年にナポリで刊行され、著者が生涯にわたって書き直し続けた著作である。1730年版と、死の年にあたる1744年版があり、通常読まれるのは最終版である。原題は「諸国民の共通の本性に関する新しい学の諸原理」という長い題を縮めたものにあたる。
構想の出発点は一つの主張にある。人間は自分が作ったものしか真に知ることができない。 自然は神が作ったのだから、完全に知りうるのは神だけである。だが歴史と社会と言語は人間が作った。したがって、人間が確実に知りうる対象は歴史のほうである。
この前提から、ヴィーコは歴史を対象とする学問を構想する。当時の学問はデカルト以来の数学と自然科学を模範としており、歴史は蓋然的な知識にすぎないと見られていた。その序列を逆転させようとした点が、この著作の企てにあたる。
論の進め方は明晰ではない。同じ主張が繰り返され、語源の解釈が飛躍し、証明の手続きが不明瞭な箇所が多い。難解な書物として知られる。
ヴィーコは1668年、ナポリの生まれ。書店を営む家に育ち、正規の教育はほとんど受けず独学で学んだ。ナポリ大学の修辞学の教授職を得たが、給与の低い地位で、生涯を通じて経済的に困窮した。より上位の法学の講座に応募して落選している。
初版の刊行にも金がなかった。当初は有力者の援助で大部の著作を出す予定だったが、援助が撤回されたため、指輪を売って費用にあて、原稿を大幅に縮めて1725年に刊行した。
以後、生涯をかけて改稿した。1730年版は構成を全面的に組み直しており、初版とは別の書物に近い。1744年版はその改訂で、印刷の途中でヴィーコは死去した。
同時代の反応は乏しかった。ナポリの外ではほとんど読まれず、著者は無名のまま死んだ。自伝を残しており、そこでは自分の思想が理解されないことへの不満が繰り返し述べられる。
文学史における評価と影響
刊行後およそ一世紀を経て発見された著作である。19世紀に入って、ドイツとフランスで読まれるようになった。ミシュレがフランス語に訳し、自らの歴史記述の方法をこの書に負うと述べている。以後、マルクス、ヘルダー以降の歴史主義、文化人類学の系譜で参照されるようになった。
歴史を対象とする独自の学問という構想が、後世に評価された点にあたる。自然科学の方法を人間の営みに適用するのではなく、人間が作ったものには別の理解の仕方があるという主張は、後の解釈学や精神科学の議論につながる。
神話と詩を、未熟な思考ではなく別種の認識として扱った点も大きい。啓蒙主義の時代には、神話は迷信として退けられるのが一般的だった。ヴィーコはそこに、初期の人間の世界の捉え方を読み取ろうとする。この見方は、ロマン主義の神話観と重なる。
文学への影響では、ジョイスが最もよく知られる。晩年の作品『フィネガンズ・ウェイク(Finnegans Wake)』は、ヴィーコの三段階と回帰の構造を骨組みに用いており、作品の最後の文が最初の文に接続する円環の形をとる。ジョイスは、ヴィーコの理論を信じているわけではないが想像力が刺激されると述べている。
20世紀にはエドワード・サイード、アイザイア・バーリンらが論じ、思想史の中の位置が定まった。
日本でも訳が読める。難解であり、解説と併読することが前提になる書物である。
内容
冒頭には、論の前提となる公理が並ぶ。人間は無知なものを自分に引き寄せて理解する、判断できないものは自分を基準に測る、といった認識の性質が挙げられる。
歴史は三つの時代を経ると論じられる。神々の時代、英雄の時代、人間の時代である。
神々の時代の人間は、雷鳴を天の怒りと解し、あらゆる自然現象を神の意志と受け取る。抽象的に考える能力を持たず、身体と感覚で世界を捉える。この段階の思考をヴィーコは「詩的知恵」と呼ぶ。詩が先にあり、散文と論理は後から来る。
英雄の時代では、力を持つ家父長の集団が支配し、法は厳格で、貴族と平民が対立する。言語は紋章や象徴によるものになる。
人間の時代では、理性が広まり、法は平等になり、言語は約束事による日常語になる。共和政や君主政が成立する。
各段階には固有の言語、法、統治、風習が対応する。三つの時代は順に進み、頂点に達したのち堕落し、再び野蛮に戻る。この循環をヴィーコは「回帰(コルシ・エ・リコルシ)」と呼ぶ。 ただし単純な円環ではなく、摂理の働きによって同じ地点には戻らないとされる。
方法論としては、神話と語源が最重要の資料になる。神話は作り話ではなく、初期の人間が世界をどう捉えていたかの記録だと考える。ホメロスについての議論がその実例で、ヴィーコは、ホメロスは実在の個人ではなく、ギリシアの諸民族が長い時間をかけて歌ってきたものの総称だと論じた。この主張は、18世紀末以降のホメロス問題を先取りしている。