ビザンツのギリシャ文学 — 古代の写本を守った千年
ビザンツ期は、コンスタンティヌスが都を移した330年から、コンスタンティノープルが陥落する1453年までを指す。
文学史で最も軽く扱われがちな千年である。古典期のような突出した作品が少なく、ルネサンス以降のヨーロッパから衰退した中世と見なされてきた。だが、この時代がなければ古代ギリシャ文学は現存していない。
何が続いていたのか
330年、コンスタンティヌスがビザンティオン(後のコンスタンティノープル)に都を移した。476年に西ローマ帝国が滅んだ後も、東ローマ帝国は1453年まで存続する。
この国の性格は複合的である。
- 政治的にはローマ帝国の継承(自らを「ローマ人」と呼んだ)
- 言語はギリシャ語(7世紀以降、公用語もギリシャ語になる)
- 宗教は東方正教
したがってビザンツ文学とは、ギリシャ語で書かれたキリスト教国家の文学ということになる。古代ギリシャの直接の子孫でありながら、宗教も政治も別のものになっている。
この時代の主な作品
| 作品 | 成立 | 作者 | 種類 |
|---|---|---|---|
| 『戦史』『秘史』 | 6世紀 | プロコピオス | 歴史叙述 |
| 讃歌 | 6世紀 | ロマノス・メロドス | 宗教詩 |
| 『文庫』 | 9世紀 | フォティオス | 読書の要約集 |
| 『ディゲニス・アクリタス』 | 12世紀頃 | 未詳 | 叙事詩 |
| 『アレクシアス』 | 1148年頃 | アンナ・コムネナ | 歴史叙述 |
プロコピオスは6世紀、ユスティニアヌス帝の時代を記録した。公式の戦史を書く一方、『秘史』では同じ皇帝夫妻を悪意をもって暴露している。同一人物が公と私で正反対の記述を残したことになり、史料としてどう扱うかが今も議論される。
アンナ・コムネナは皇女として、父アレクシオス1世の治世を『アレクシアス』に記録した。女性が本格的な歴史叙述を残した早い例である。第一回十字軍を東側から見た記録としても重要で、西欧側の史料と突き合わせると見え方が変わる。
古代の文献が読めるのは、写字生が書き写し続けたから
古代ギリシャの文献が今日読めるのは、ビザンツの写字生が書き写し続けたからである。
パピルスは湿気に弱く、数百年しか持たない。羊皮紙の写本に書き写す作業が繰り返されなければ、文章は失われる。修道院と宮廷の写字室が、千年にわたってこれを続けた。
さらに、9世紀の総主教フォティオスは膨大な読書の要約を残した。そこで言及されている書物の多くは現存しない。つまり、何が失われたかを知る手がかりにもなっている。
同時に選別も行われた。キリスト教的に問題がある、あるいは需要がないと判断された作品は写されず、消えた。サッポーの作品がほとんど残っていないのも、アイスキュロスの七十以上の作品のうち七篇しか伝わらないのも、この選別を経た結果である。われわれが読める古代ギリシャ文学は、千年の写本作業を生き延びた一部にすぎない。
1453年の陥落が、西欧への古典流入を加速した
コンスタンティノープルがオスマン帝国に陥落した。
その前後に、ギリシャ語の写本と学者がイタリアへ移動した。 ギリシャ語を教えられる人材と、読むべき文章が同時に西欧へ入ったことになる。
イタリア・ルネサンスにおける古代の再発見は、この継承の上に成立している。プラトンの著作が西欧で本格的に読まれるようになるのも、この流れの中である。
つまり、ビザンツが千年かけて保存したものを、ルネサンスが受け取った。暗黒の中世という図式では、この連続が見えなくなる。
ビザンツが残したのは、古代そのもの
| 中身 | |
|---|---|
| 継承の複合性 | 政治はローマ、言語はギリシャ、宗教は正教 |
| 保存という功績 | 古代文献は写本作業なしには現存しない |
| 選別された遺産 | 残ったものは、千年の取捨選択を経た一部 |
| ルネサンスへ | 1453年の崩壊が、西欧への古典流入を加速した |