俗語文学の始まり — ダンテ・ペトラルカ・ボッカッチョ
イタリア文学の出発点にあたるこの時代は、1265年(ダンテの生年)から1400年頃までを指す。日本では14世紀にあたり、トレチェントとも呼ばれる。
この百年ほどの間に、三人の作家が同じ地域に現れた。ダンテ・アリギエーリ、ペトラルカ、ボッカッチョ。三人ともトスカーナの出身か、その言葉で書いた。
やったことは、作品を残したことだけではない。イタリア語という文学の言語を、事実上作った。 そしてその選択が、ヨーロッパ全体の俗語文学の出発点になる。
三人が選ばなかったのは、ラテン語だった
当時、書くべき言語はラテン語だった。神学も法学も歴史も、真面目な内容はすべてラテン語である。俗語は日常の話し言葉であり、文学の言語とは見なされていない。その常識を破ったことが、この時代の意味である。
しかも当時のイタリアには、統一されたイタリア語が存在しない。各都市が別の方言を話していた。三人が使ったトスカーナ方言が、その権威によって後の標準イタリア語になっていく。
これはチョーサーがロンドン方言を標準英語にしたのと同じ構図である。国家ではなく作家が言語の標準を決めた。
この時代の主な作品
| 作品 | 成立 | 作者 | 種類 |
|---|---|---|---|
| 新生 | 1294年頃 | ダンテ・アリギエーリ | 詩と散文 |
| 神曲 | 1308〜1321年 | ダンテ・アリギエーリ | 長篇の詩 |
| デカメロン | 1349〜1353年 | ボッカッチョ | 枠物語 |
| カンツォニエーレ | 14世紀 | ペトラルカ | 集 |
ダンテは、政敵を実名で地獄に置いた
ダンテ・アリギエーリの神曲(1308〜1321年)は、地獄・煉獄・天国を巡る旅を、三行一組の韻文で書いた長篇である。
規模と構成が緻密である。全体が三部からなり、各部が三十三歌(地獄篇のみ序歌を加えて三十四)で、合計百歌。三という数が全体を貫いている。
内容は、実在の人物が具体的な罰を受けている場面の連続である。政敵、教皇、同時代のフィレンツェ市民が実名で地獄に置かれる。政治的な文書としても読める。ダンテ自身、政争に敗れて故郷を追放され、二度と戻れないまま客死した。
案内人はウェルギリウスである。千三百年前のローマの詩人を導き手に選んだ。ただしウェルギリウスは異教徒であるため天国へは入れず、途中で退場する。古代への敬意と、そこから離れる意志の両方が、この構造に現れている。
新生は、ベアトリーチェへの愛を詩と散文の解説で構成した作品である。詩に自分で註釈をつけるという形式で、後の詩集の作り方に影響した。また『俗語論』で俗語で書くことの正当性を論じているが、皮肉なことに、この論はラテン語で書かれている。
ペトラルカは、ソネットの型をヨーロッパ中に広めた
ペトラルカのカンツォニエーレは、ラウラという女性への愛を三百篇余りの詩で歌った詩集である。
ソネットという形式を洗練させ、ヨーロッパ全体に広めた。14行の中で、期待と失望、聖と俗、生と死が対比される。相手は手の届かない存在であり、その苦しみ自体が詩の主題になる。ペトラルカ主義という語が生まれるほど、恋愛詩の型を決定した。 イギリスではワイアットとサリーが英語に移し、そこからシェイクスピアのソネットへつながる。フランスではロンサールらプレイヤード派がこれを受け継いだ。
もう一つの顔がある。古典の写本を探し歩いた最初期の人文主義者だった。忘れられていたキケロの書簡集を発見し、古代の著作家に宛てた手紙を書いている。古代を取り戻すべきものとして意識する態度が、ここでルネサンスの前提になる。
自分ではラテン語の著作を主要な仕事と考えていたとされる。俗語の恋愛詩は余技のつもりだった。後世の評価が本人の意図と食い違った例である。
ボッカッチョは、神の摂理より人間の機知が勝つ話を集めた
ボッカッチョのデカメロン(1349〜1353年)は、ペストを逃れて郊外の別荘にこもった十人の男女が、十日間で一日十話ずつ語るという構成をとる。外側に一つの枠を置き、その中に短い話を収める形式で、チョーサーのカンタベリー物語が直接この影響下にある。
内容は多様である。恋愛、頓智、色事、聖職者への皮肉。神の摂理より人間の機知が勝つ話が多く、中世的な価値観からの転換が見える。
冒頭に置かれたペストの描写は、同時代の疫病の記録としても読まれてきた。死が日常になった状況で、人々が語ることによって生を回復する、という構造になっている。
ボッカッチョもまた古典の収集と研究に努め、ダンテ・アリギエーリの伝記と註釈を書いた。『神曲』という呼称は、この人物が「神聖な」と形容したことに由来するとされる(ダンテ自身の題名は『喜劇』だった)。
この時代が残したのは、俗語で書くという選択
| 中身 | |
|---|---|
| 言語の選択 | ラテン語ではなく俗語で書いた。ヨーロッパの俗語文学の出発点 |
| 標準語の成立 | トスカーナ方言が三人の権威によって標準イタリア語になった |
| 形式の輸出 | ソネットと枠物語がヨーロッパ中に広がった |
| 古代の再発見 | ペトラルカの写本探索が、ルネサンスの前提を作った |