ボッカッチョ

赤い帽子をかぶり、書物を手にして立つジョヴァンニ・ボッカッチョを描いた壁画。
アンドレア・デル・カスターニョ筆(1450年頃)
原綴
Giovanni Boccaccio
生没
1313–1375
出身
フィレンツェ近郊(推定)
イタリア
時代
俗語文学の始まり

生涯

1313年、商人の家の庶子として生まれた。出生地は確定していない。父はフィレンツェの銀行の関係者で、息子をナポリの支店へ送り、商業と法律を学ばせた。

ナポリの宮廷文化に触れたことが、文学の素地になった。この時期に書いた物語詩には、後にチョーサーが下敷きにしたものがある。

1348年、フィレンツェをペストが襲う。市の人口の半分以上が死んだとされ、父もこのとき亡くなった。この経験がデカメロンの枠になる。

その後フィレンツェに戻り、外交使節などの公職に就いた。ペトラルカとの友情が生涯続いている。十歳年上のペトラルカを師と仰ぎ、その影響で古典研究へ傾斜していった。

晩年はデカメロンを後悔したと伝えられる。厳格な修道士の訪問を受けて動揺し、俗語の作品を焼こうとしたところ、ペトラルカに思いとどまるよう諭されたという逸話がある。ただしこの伝承の細部には検証の余地がある。1375年、フィレンツェ近郊で62歳で死去した。

作風

ボッカッチョは、散文の物語を詩と対等の文学にした。当時の前提を確認しておく必要がある。ダンテは詩を書き、ペトラルカも詩人である。価値ある文学は韻文だった。散文は実務と学問の言語である。デカメロンは、俗語の散文で書かれた百篇の物語であり、以後のヨーロッパの散文物語の出発点になった。

枠の設定が効いている。1348年のペストを逃れた十人の男女——女七人、男三人——が郊外の別荘にこもり、十日間、一日十話ずつ語る。死が支配する世界から離れた場所で、人々は語ることによって生を回復する。冒頭に置かれた疫病の描写は具体的で、死者が路上に放置され、家族が互いを見捨て、社会の秩序が崩壊する様子が書かれており、同時代の記録としても読まれてきた。

内容は多様である。恋愛と情事、頓智で窮地を脱する話、聖職者の偽善への皮肉、悲恋と死。貫いているのは、神の摂理ではなく人間の機知が事態を動かすという構図である。賢く立ち回った者が得をし、道徳的な報いは必ずしも来ない。中世的な価値観からの転換が、ここに見える。

後半生は、物語作者というよりの学者だった。古典の写本を収集し、荒れた修道院の書庫を訪ねて調査した。西欧でほとんど失われていたギリシャ語を学ぼうとし、ホメロスのラテン語訳を作らせている。

作品

デカメロン(1349〜53年頃)

主著である。百篇の枠物語からなる。

『フィローストラト』『テセイダ』は若い頃の物語詩で、チョーサーが下敷きにした。

『ダンテ伝』

ダンテの最初期の伝記である。ボッカッチョはフィレンツェで神曲の公開講義も担当した。なお「神曲(Divina Commedia)」という呼称は、ボッカッチョが「神聖な」と形容したことに由来するという。ダンテ自身の題名は『喜劇(Commedia)』だった。

『神々の系譜』

古代神話を集成した事典で、ルネサンスの画家や詩人が神話を調べる際の参照元になった。

文学史における立ち位置と影響

ダンテペトラルカと並んで「三詩星(トレ・コローネ)」と呼ばれる。三人の分担を整理すると、この人の位置がはっきりする。

何を確立したか
ダンテ・アリギエーリ俗語で最高の主題を扱えることを示した
ペトラルカ抒情詩の型(ソネット)と、古典への態度
ボッカッチョ散文の物語と、枠物語の形式

枠物語という形式は、チョーサーカンタベリー物語が直接この影響下にある。巡礼の一行が順に語るという構造は、デカメロンから来ている。

シェイクスピアの『終わりよければすべてよし』『シンベリン』の筋も、デカメロン由来である。マルグリット・ド・ナヴァールの『エプタメロン』は直接の模倣にあたる。短い物語を集めるという形式そのものが、近代の短篇小説の遠い起点になっている。

デカメロンは長く「猥褻な書」として扱われた時期がある。イギリスやアメリカでは20世紀に入っても検閲の対象になった。

作品

登場する文学史