イタリア文学 ルネサンス
通史では、この時代を「古代の再発見と、政治の現実」と要約した。ここではその中身を開く。
まず前提を押さえる。ルネサンスは「古代の復興」と説明されるが、実際に何が起きたのか。
答えは物理的である。読める文献が増えた。
なぜ古代が「再発見」されたか
三つの経路がある。
修道院の書庫からの発掘。 ペトラルカ以来の人文主義者が、ヨーロッパ各地の修道院を回って忘れられた写本を探した。キケロの書簡、ルクレティウスの物の本質についてなどがこうして戻ってきた。
ビザンツからの流入。 一四五三年のコンスタンティノープル陥落の前後に、ギリシャ語写本と、それを読める学者がイタリアへ渡った。プラトンの著作が西欧で本格的に読まれるようになるのはこの流れによる。 中世西欧が知っていたギリシャ哲学は、主にアリストテレスのラテン語訳を通じたものだった。
印刷術。 十五世紀後半、ヴェネツィアのアルドゥス・マヌティウスらが古典の校訂版を大量に刊行した。写本を借りて写す時代から、本を買う時代へ変わる。
この三つが重なって、知的な条件が一変した。 ルネサンスの興奮は、思想の進歩というより、まず読めるものが増えたことから来ている。
マキァヴェッリ — 政治を道徳から切り離す
マキァヴェッリの君主論(執筆一五一三年、刊行一五三二年)は、君主が権力を維持するための実務書である。
方法が新しかった。「君主はどうあるべきか」ではなく「実際にどうすれば維持できるか」を書いた。 道徳的に望ましいことと、政治的に有効なことは別だ、という前提に立つ。
有名な論点がいくつかある。愛されるより恐れられるほうが安全である。約束を守ることが不利になるなら守るべきではない。残酷さは、必要なら一度に行い、恩恵は少しずつ与えるべきである。
「マキャヴェリズム」という語が生まれ、悪徳の代名詞になった。 ただし彼自身は共和政の支持者であり、フィレンツェ共和国の官僚として働いていた。メディチ家の復権で失脚し、拷問を受けて追放された身で、復職を願ってこの書を献呈したとされる。
もう一つの著作『ディスコルシ』はリウィウスのローマ建国史への註釈という形式をとり、共和政の優位を論じている。 二冊を並べると評価が変わるため、どちらを本心と見るかで解釈が分かれてきた。
騎士道物語 — 語り直しと諧謔
アリオストの狂えるオルランド(一五一六〜三二年)は、シャルルマーニュ伝説を素材にした長篇詩である。
真面目に語らない点が特徴である。 英雄は月まで正気を取り戻しに行き、筋は次々に脱線し、語り手が読者に話しかける。騎士道物語の型を使いながら、その型を笑っている。
ヨーロッパ中で読まれ、エドマンド・スペンサーの妖精の女王や後のセルバンテスに影響した。
タッソの解放されたエルサレム(一五八一年)は第一回十字軍を主題にする。アリオストの奔放さに対し、こちらは統一と荘重を重んじた。 対抗宗教改革の時代の作品であり、宗教的な正しさへの配慮が作品に緊張を与えている。作者は自作の正統性をめぐって苦しみ、晩年は精神を病んだ。
宮廷人の作法 — ヨーロッパの教科書
カスティリオーネの宮廷人(一五二八年)は、理想的な宮廷人の資質を対話形式で論じた書物である。
有名な概念が「スプレッツァトゥーラ」——努力の跡を見せないこと。何事も苦もなくやってのけているように見せる技術である。
この書はヨーロッパ各国の宮廷文化の教科書になった。 英訳・仏訳・西訳が出て、貴族の振る舞いの規範を提供した。文学作品というより行動の指南書だが、ヨーロッパの上流社会の作法を規定したという点で影響が大きい。
美術と文学の接点
ヴァザーリの『美術家列伝』(一五五〇年)は、ジョットからミケランジェロまでの画家・彫刻家の伝記を集めたものである。
美術史という分野を事実上作った。 「ルネサンス(再生)」という時代区分の考え方も、この書物に由来するとされる。
ただし記述には創作や誇張が多く、史料として無批判に使えないことが今日では知られている。
この時代をどう読むか
| 中身 | |
|---|---|
| 物理的な条件 | 写本の発掘・ビザンツからの流入・印刷術。読めるものが増えた |
| 政治の分離 | マキァヴェッリが道徳と有効性を切り離した |
| 型の笑い | アリオストは騎士道物語の型を使いながら笑った |
| 作法の輸出 | 宮廷人がヨーロッパ貴族の振る舞いを規定した |