レオパルディ

- 原綴
- Giacomo Leopardi
- 生没
- 1798–1837
- 出身
- レカナーティ(中部イタリア・マルケ州、当時は教皇領)
- 国
- イタリア
- 時代
- 統一運動期・近代
生涯
1798年、教皇領の小さな町レカナーティの貴族の家に生まれた。父は蔵書家で、二万冊を超える書庫を持っていた。少年時代の世界はほぼこの部屋だけだった。
正規の学校教育を受けていない。だが独学で驚くべき学識を身につけた。十代のうちにラテン語、ギリシャ語、ヘブライ語を修め、古典の注釈を書いて学者たちを驚かせている。本人はこの時期の勉強を「狂気じみた絶望的な勉学」と呼んだ。
その代償は大きかった。無理な勉学によって健康を決定的に損ない、脊椎が変形し、視力も悪化する。以後、生涯を通じて病に苦しんだ。
閉ざされた田舎町と厳格な家庭から出たい、という願いに長く苦しんでいる。二十代半ばでようやくローマへ出たが、期待した知的な環境はそこにもなかった。以後、ミラノ、ボローニャ、フィレンツェ、ピサと各地を転々とする。
友人アントニオ・ラニエーリの世話を受け、晩年はナポリで暮らした。1837年、コレラの流行するナポリで死去する。三十八歳だった。
作風
その思想の出発点はこうである。人間は幸福を求める。だがそれは決して満たされない。自然は人間に無限の幸福への欲求を与えておきながら、それを満たす手段を与えなかった。だから生きることは苦しみか、さもなければ退屈になる。この認識に若くして到達し、生涯変えなかった。
初期には、不幸の原因を近代文明に求めていた。古代の人々は幻想を持つことができ、そのぶん幸福だった。理性がその幻想を壊してしまった、という考え方である。
後にこの見方は変わる。原因は文明ではない。自然そのものが人間に無関心なのだ、という結論に至った。自然は母ではなく継母である。人間の幸不幸などまったく顧みない。この宇宙の側の無関心こそが、人間の不幸の根にある。
「ジネストラ(えにしだ)」がその到達点にあたる。ヴェスヴィオ火山の荒れ果てた斜面に、えにしだが一株だけ咲いている。次の噴火が来れば押し潰される。だがこの花は自分の弱さを知っていて、天に逆らうそぶりも見せない。レオパルディはそこに人間のあるべき姿を見る。人間が自然の主人だという思い上がりを捨て、その無関心を直視し、そのうえで、同じ運命を負う者どうしが手を取り合うこと。悲観の果てに示されるのは、この連帯である。
思想は暗いが、詩そのものは澄んでいる。「無限」がその代表にあたる。丘の上に座ると、垣根が視界を遮って向こうが見えない。見えないからこそ、その先にある果てしない空間と時間を想像する。そして最後に、この無限のなかで思いが溺れるのは甘美だ、と結ぶ。わずか十五行の詩である。
散文も書いた。『道徳小品集』は、対話や寓話の形をとりながら、同じ思想を諧謔をまじえて展開する。生涯にわたる思索の覚書『ジバルドーネ』も残した。
作品
『カンティ(Canti)』
詩集である。四十篇あまりを収める。
「無限(L'Infinito)」(1819年)は最もよく知られた詩で、イタリア詩の至宝とされる。
「シルヴィアに(A Silvia)」(1828年)は、若くして死んだ隣家の娘を追想する詩である。彼女の死と、自分が失った青春とを重ねる。
「ジネストラ(La Ginestra)」(1836年)は最晩年の長詩で、思想の集大成にあたる。
『道徳小品集(Operette Morali)』(1827年)
対話と寓話による散文集である。自然の女神とアイスランド人が問答する一篇などが知られる。
『ジバルドーネ(Zibaldone)』
生涯にわたる思索の覚書である。四千頁を超え、死後長く経ってから刊行された。
日本語ではカンティと『道徳小品集』の訳がある。
文学史における立ち位置と影響
ダンテ以後のイタリア最大の詩人とされる。
詩の完成度に比べるものがない。悲観的な思想をこれほど澄んだ言葉で表した例は稀である。イタリア語の可能性を限界まで引き出した詩として、ペトラルカ以来の抒情詩の伝統の頂点に置かれる。
思想家としての評価も高い。その悲観は個人の気質の表明ではなく、人間が置かれた条件についての一貫した考察にあたる。ドイツのショーペンハウアーとよく比較される。同じ時代に、互いを知らないまま、ほぼ同じ結論に達していた。ニーチェもレオパルディを高く評価している。
20世紀に入って、その現代性が改めて認識された。宇宙が人間に無関心であることを直視し、そのうえで人間どうしの連帯を説く。この立場は実存主義の先駆と見なされ、カミュの不条理の思想とも重なる。
イタリアの詩人への影響も大きい。モンターレをはじめ、20世紀の詩人はこの詩人を避けて通れなかった。
病んだ身体と閉ざされた境遇のなかでこれだけの詩を書いた、という生涯そのものも語り継がれている。
日本での受容は限られてきたが、翻訳と研究がなされている。ダンテと並ぶイタリアの詩人として位置づけられている。