統一運動期のイタリア文学 — マンゾーニとレオパルディ

イタリア文学の統一運動期・近代は、1800年から1900年までを指す。リソルジメントと呼ばれる統一運動の時代にあたる。

19世紀、イタリアは統一へ向かう。そして文学は、政治より先に一つの問題に直面した。

イタリア人が話す言葉が、地域ごとにばらばらだった。統一の時点で、標準イタリア語を日常的に使える人口は数パーセントだったとする推計がある。ナポリではナポリ語、ヴェネツィアではヴェネツィア語、シチリアではシチリア語が話されていた。

書き言葉としてのイタリア語はダンテ・アリギエーリ以来存在したが、それは五百年前の文学の言語である。日常の会話を書くには古すぎた。近代国家には、全員が読み書きできる共通語が要る。その言語をどう作るかが、この時代の文学の中心的な問題になった。

この時代の主な作品

作品発表作者種類
婚約者1827年/1840〜1842年マンゾーニ歴史小説
カンティ1835年レオパルディ詩集
『新韻律詩集』1877年ジョズエ・カルドゥッチ詩集
『マラヴォリア家の人々』1881年ヴェルガ小説。

マンゾーニは、同じ小説を二度書いた

マンゾーニ婚約者は、17世紀のロンバルディアを舞台に、権力者に結婚を妨げられた庶民の男女を描く歴史小説である。

重要なのは、同じ作品を二度書いたことである。

1827年に初版を出した後、フィレンツェへ行き、現地で話されている言葉を採取した。そして1840〜1842年に、語彙も語法も全面的に置き換えた決定版を出す。アルノ川で衣をすすぐ、と本人が表現したとされる。

なぜそこまでしたのか。統一されたイタリア語の規範を、小説の実作によって示そうとしたからである。文法書や辞書ではなく、多くの人が読む物語が言語の手本になる、という判断である。この意図は実現した。この作品はイタリアの学校教育で必読とされ、標準イタリア語の形成に実際に作用している。

日本の言文一致と構造が同じ問題である。書き言葉と話し言葉の乖離をどう埋めるか。ただし日本では二葉亭四迷らが新しい文体を模索したのに対し、マンゾーニは既存の一地方の言葉を選んで規範に据えたという違いがある。

作品自体も、権力の恣意と民衆の忍耐を描いた点で、統一運動期の読者に強く響いた。

レオパルディは、絶望を感傷ではなく厳密な言語で書いた

レオパルディカンティで、深い悲観を透明な言語で歌った。

主題は一貫している。自然は人間に無関心であり、幸福は幻想であり、希望は失われるためにある。 それを感傷的にではなく、透明で厳密な言語で書く。

貴族の家に生まれ、幼少期から古典を独学して健康を損ない、生涯病苦に苦しんだ。その境遇と思想を短絡的に結びつける読み方には注意が要るが、両者の関係は繰り返し論じられてきた。散文の『ジバルドーネ』は膨大な省察の集積で、死後に刊行されている。

19世紀ヨーロッパの詩人の中でも屈指の評価を受けており、イタリア国外ではショーペンハウアーらが早くから注目した。

ヴェルガは、方言のリズムを標準語の散文に持ち込んだ

世紀後半、ヴェルガを掲げた。

フランスの自然主義の影響下にあるが、重点が違う。ゾラが科学的な実験という枠組みを立てたのに対し、ヴェルガは話し言葉の再現に集中した。

シチリアの貧しい漁村を舞台に、方言のリズムを標準語の文章に持ち込む。語り手が消え、村人の視点と語り口がそのまま地の文になる。 作者の判断を排するという点ではフローベールと方向が同じである。

『マラヴォリア家の人々』では、貧困から抜け出そうとした一家が、その試みゆえに没落していく。統一されたイタリアの南部が置かれた状況が背景にある。

統一の後、国民をどう作るかが問題になった

1861年にイタリア王国が成立する。だが「イタリアは作った。次はイタリア人を作らねばならない」という言葉が残っているように、国民の形成はそこから始まった。

ジョズエ・カルドゥッチは古典的な韻律を用いた詩で、新しい国家の詩人という位置に立った。1906年、イタリア人として初めてノーベル文学賞を受賞している。ただし今日の評価は当時ほど高くない。

この時代が示すのは、国語より先に文学があったこと

中身
言語が先にある統一国家より前に、共通語をどう作るかが問題だった
書き直しという方法マンゾーニは小説を実作として言語の規範に据えた
悲観の透明さレオパルディは絶望を感傷ではなく厳密な言語で書いた
南部の現実ヴェルガは方言のリズムを標準語の散文に持ち込んだ

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