イギリス詩の歴史 — ベーオウルフからシェイクスピア、ロマン主義、現代詩まで

英語の詩は、強く読む音と弱く読む音の並びで形を作る。日本の詩歌が音の数を、フランス詩が音節の数を数えるのに対し、英語詩が数えるのは強く読む音の数である。この土台の上で、外から来た形式を英語に合わせて作り直す、ということが何度も繰り返された。中世にフランス語から韻が入り、ルネサンスにイタリアからソネットが入り、二十世紀にアメリカから自由詩が入る。ここでは、その全体を時代の順にたどる。

イギリス詩の流れ 早見表

時代中心の形式代表的な作品何が新しかったか
8〜11世紀(古英語)頭韻詩ベーオウルフ強く読む音を四つ数え、その語頭の音をそろえる。行末の韻はない
14世紀韻を踏む物語詩カンタベリー物語フランス語から脚韻が入り、一行およそ十音節の型ができた
16世紀ソネットと無韻詩ソネット集イタリアから十四行詩が入る。同時に、韻を捨てて劇の台詞に使う形が生まれた
17世紀無韻詩・形而上詩失楽園韻を踏まずに長大な叙事詩を書き、韻は要らないと公言した
18世紀ヒロイック・カプレット二行ごとに韻を踏み、その二行で言い切る。風刺と議論の器になった
19世紀前半無韻詩・バラッド・頌詩抒情民謡集序曲詩の言葉を、実際に人が話す言葉に近づけた
19世紀後半劇的独白・連作詩イン・メモリアム詩人でない人物に語らせる形式。強い音だけを数える試みも現れた
20世紀前半自由詩荒地音数も韻も定めない。断片を並べて組み立てる
20世紀後半口語の詩と、古英語への回帰話し言葉の平明な詩と、頭韻の復活が並び立った

イギリス詩の土台 — 強く読む音を数える

はじめに、英語の詩がどう作られているかを押さえておく。ここが分かると、以後の変化がすべて理解しやすくなる。

日本語・フランス語と、どこが違うのか

日本の詩歌は音の数を数える。五音と七音を組み合わせて調子を作り、韻は踏まない。フランス詩は音節の数を数える。十二音節の行を並べ、行末の響きをそろえる。どちらも、数えているのは「いくつあるか」だけである。

英語ではこれがうまくいかない。英語の語には、必ず強く読む部分と弱く読む部分がある。water は前を強く、above は後ろを強く読む。この強弱は語ごとに決まっていて、勝手に動かすと通じない。だから音節の数だけそろえても、読んだときの調子はばらばらになってしまう。

そこで英語詩は、強い音と弱い音をどう並べるかを規則にした。数える対象は、強く読む音の数である。

弱強五歩格 — イギリス詩の背骨

最もよく使われてきたのが、弱い音と強い音を交互に置き、それを一行に五回繰り返す型である。これをという。音節でいえば、およそ十音節になる。

実際に一行を割ってみる。シェイクスピアソネット集第18篇の冒頭で、太字が強く読む音にあたる。

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Shall Icomparethee toa summer's day

「君を夏の一日にたとえようか」という意味の一行が、弱・強の組を五つ並べてできている。

この長さが選ばれたのには理由がある。英語で普通に一息で言える長さが、このあたりだからである。フランス詩のアレクサンドランが十二音節、日本の短歌の一句が五音か七音であるのと同じで、その言語で自然に区切れる長さが型になっている。

ただし、実際の朗読でこの通りきっちり強弱が交替するわけではない。型は下敷きであって、そこから少しずつずらすことで詩に動きが出る。型どおりに読める行ばかりが続くと、単調な調子になってしまう。

韻を踏む詩と、踏まない詩

弱強五歩格は、行末で韻を踏んでも踏まなくてもよい。ここが英語詩とフランス詩の決定的な違いになる。フランス詩では脚韻が必須で、韻を捨てるのは十九世紀末まで待たねばならなかった。英語では十六世紀の時点で、韻を踏まない詩がすでに成立している。

行末をどう扱うかで、詩の性格は大きく変わる。主なものは四つである。

作りどんな効果か
ソネット十四行。四・四・四・二に分け、最後の二行で言い切る前半で積み上げ、末尾でひっくり返す
ヒロイック・カプレット二行ずつ韻を踏み、その二行で意味も完結させる一組ごとに切れるので、風刺や議論に向く
無韻詩韻を踏まない。行の長さだけ守る文が行をまたいで流れ、話し言葉に近くなる
バラッド律強い音が四つの行と三つの行を交互に置く物語を語る歌の調子。讃美歌もこの形

三つの型を、実際の詩で見る

以下の三つは、いずれも弱強五歩格で書かれている。違うのは行末の扱いだけである。太字を付けた部分が、そろえられている音にあたる。

ソネット(ABAB)シェイクスピアソネット集第130篇の冒頭。恋人を称える詩の決まり文句を、一つずつ否定していく一篇である。

原文
My mistress' eyes are nothing like the sun;A
Coral is far more red than her lips' red;B
If snow be white, why then her breasts are dun;A
If hairs be wires, black wires grow on her head.B

一行おきに響きが戻る型で、フランス詩でいう交差韻にあたる。恋人の目は太陽に似ていない、唇は珊瑚ほど赤くない、と否定が積み重なっていく。ソネットは十四行あり、この調子が続いたのち、最後の二行でそれでも自分の恋人は誰にも劣らないと言い切って閉じる。十二行かけて積み上げ、二行でひっくり返すのがこの形式の作りである。

無韻詩ミルトン失楽園の冒頭。人類が楽園を失う経緯を語り出す部分である。

原文
Of Man's first disobedience, and the fruitなし
Of that forbidden tree whose mortal tasteなし
Brought death into the World, and all our woe,なし
With loss of Eden, till one greater Manなし

fruit、taste、woe、Man と並び、どこにも響きの重なりがない。そのうえ、文がまだ終わっていない。韻がないと、行末で立ち止まる理由がなくなるので、一つの文をいくらでも先へ延ばせる。この四行のあとも文は続き、実際には十六行めまで切れない。演説や語りの調子が出せるのはこのためで、劇の台詞に使われた理由でもある。

ヒロイック・カプレット(AABB)ポープの詩論『批評論(An Essay on Criticism)』の一節。詩の書き方そのものを論じた箇所である。

原文
True ease in writing comes from art, not chance,A
As those move easiest who have learn'd to dance.A
'Tis not enough no harshness gives offence,B
The sound must seem an Echo to the sense.B

二行ずつ組になり、そこで文も終わる。書き物のなめらかさは偶然ではなく技術から来る、踊りを習った者が最も軽やかに動くように、という一組。続いて、耳障りでなければよいというものではなく、音は意味の反響のように聞こえねばならない、という一組。一つの主張を二行に収めて、次の二行でまた別の主張を出す。この切れのよさが、風刺と議論に向いていた。

古英語 — 頭韻でつなぐ詩(8〜11世紀)

現在の英語からさかのぼると、十一世紀より前の英語は別の言語といってよい。語形も語彙も大きく異なり、現代の英語話者には読めない。この古英語で書かれた詩が、イギリス詩の最も古い層にあたる。

代表がベーオウルフである。約3180行の英雄叙事詩で、デンマークの王宮を襲う怪物グレンデルを退治し、後年には竜と戦って命を落とす主人公の生涯を語る。

この詩の作り方は、後の英語詩とまったく違う。一行が真ん中で二つに割れ、前半に強い音が二つ、後半にも二つ置かれる。そして前半の強い音と、後半の最初の強い音を、同じ子音で始める。行の終わりの音はそろえない。つまり、行をまとめているのは脚韻ではなくである。

羊皮紙に茶色のインクで書かれた古英語の写本のページ。冒頭の数語だけが大きな装飾文字で、以下は行を分けずに詰めて書かれている。縁が焼けて傷んでいる。
『ベーオウルフ』の冒頭(10世紀末頃の写本)。詩でありながら行分けされず、散文のように紙面いっぱいに詰めて書かれている。どこで行が切れるかは、書かれた形ではなく頭韻の響きが示していた。縁の焦げは1731年の火災による。

語の使い方にも特徴がある。海を「鯨の道」、体を「骨の家」のように、二つの語を組み合わせた言い換えを多用する。ケニングと呼ばれるこの手法によって、同じ物を指す表現を次々に変えられるため、頭韻に必要な子音を持つ語を選びやすくなる。形式上の制約が、語彙の作り方まで決めていた。

この伝統が途切れる原因は、詩の内部にはない。1066年、ノルマンディー公ウィリアムがイングランドを征服し、宮廷と法廷の言語がフランス語に変わった。以後およそ三百年、英語は支配層の言語ではなくなる。英語で書かれた文学は表舞台から消え、再び現れたときには、フランス語の詩の作法をまとっていた。

中世 — フランス語から韻がやってきた(12〜14世紀)

十四世紀に英語の詩が戻ってくる。このとき入っていたのが脚韻である。フランス語の詩、そしてその背後にあるラテン語の讃美歌が、行末の音をそろえる書き方を持ち込んだ。

ただし、古い作法が一挙に消えたわけではない。同じ十四世紀に、頭韻の詩が北部と西部で盛んに書かれている(頭韻詩復興)。ラングランドの『農夫ピアズの幻想(Piers Plowman)』は、社会と信仰を寓意で描いた長詩だが、頭韻で書かれている。作者不明の『ガウェイン卿と緑の騎士』も同様で、こちらは頭韻の連の末尾に、韻を踏む短い数行を付ける折衷の形をとる。二つの体系が数十年のあいだ並走していた。

この時期を決定づけたのがチョーサーである。役人として大陸へ何度も渡り、フランスとイタリアの詩を直接読んだ。そこで学んだ形式を英語に移し、カンタベリー物語を書く。カンタベリーへ向かう巡礼たちが道中で物語を語り合うという枠組みで、騎士、粉屋、女子修道院長、たびたび結婚した女など、身分も語り口も異なる人物を並べた。

写本の余白に描かれた、灰色の馬にまたがるチョーサーの細密画。黒い頭巾と長衣を着て右手で前を指している。右側には装飾文字で始まる本文が並ぶ。
エルズミア写本(15世紀初頭)に描かれたチョーサー。『カンタベリー物語』は各話の傍らに語り手の絵を置いており、作者自身も巡礼の一人として馬上に描かれている。チョーサーの最も古い肖像とされる。

詩の形の上で重要なのは、一行およそ十音節・行末で韻を踏むという型を、英語に定着させたことである。後の弱強五歩格の直接の先祖にあたる。加えて、当時のロンドンの言葉で書いたことも大きい。この言葉が標準英語の基礎になったため、チョーサーは英語詩の出発点として扱われる。

もっとも、後世の読者はチョーサーの詩がうまく読めなくなった。語末の e を発音しなくなったため、音数が合わなくなったのである。十六世紀以降、チョーサーは韻律の下手な詩人だと誤解された時期が長く続いた。発音の変化によって、詩の設計図が読み取れなくなった例である。

ルネサンス — ソネットの輸入と、無韻詩の発明(16世紀)

イタリアから十四行詩が来た

十六世紀、二人の宮廷人がイタリアの詩を英語へ持ち込んだ。ワイアットサリー伯である。

ワイアットは外交使節としてイタリアへ渡り、ペトラルカのソネットを英語に訳した。十四行という枠、報われない恋を主題にすること、比喩を積み上げて最後で転じる作り方が、これによって英語に入る。ただしイタリア式のソネットは、同じ響きの語を何度も使う必要があり、英語では書きにくかった。

サリー伯がこれを組み替える。十四行を四・四・四・二に分け、それぞれ別の韻を使う形にした。同じ響きを繰り返し探さずに済むため、英語で格段に書きやすくなる。この型が普及し、後にシェイクスピアソネット集で用いたことから、現在は「シェイクスピア型ソネット」と呼ばれる。

二人の詩は生前には印刷されず、1557年の詞華集『トテルの詞華集』で初めてまとまって世に出た。以後の四十年ほどで、ソネットは大流行する。シドニーの『アストロフェルとステラ』、スペンサーの『アモレッティ』、そしてシェイクスピアの154篇が、この流行のなかで書かれた。

スペンサーは妖精の女王で、九行から成る独自の連も作っている。八行を弱強五歩格で書き、最後の一行だけ十二音節に伸ばす。この長い行は、フランス詩のアレクサンドランを英語に持ち込んだものである。

韻を捨てるという発明

サリー伯は、古代ローマのウェルギリウスの叙事詩アエネイスを英語に訳したとき、弱強五歩格は保ったまま、韻をいっさい踏まなかった。1550年代のことで、これがの始まりである。

この形式が何をもたらしたかは、劇に使われて明らかになる。韻があると、二行ごと、あるいは四行ごとに文を終わらせなければならない。韻がなければその必要がなく、文を好きなだけ伸ばし、行の途中で切ることもできる。書き言葉の枠を守りながら、話し言葉の呼吸で書けるようになった。

最初に本格的に使ったのがマーロウで、1587年の『タンバレイン大王』を無韻詩で書いた。同時代のジョンソンがこれを「マーロウの力強い行」と評したことで知られる。続くシェイクスピアは、戯曲のほとんどをこの形式で書いた。初期の作品では行末で文が切れることが多いが、後期になるほど文が行をまたいで流れ、韻文であることが意識されなくなっていく。

17世紀 — 奇想の比喩と、韻を拒んだ叙事詩

十七世紀前半に現れたのが、後にと総称される一群である。中心にいるダンは、恋人どうしの別れをコンパスの二本の脚にたとえる。片方が動かずにいるから、もう片方は円を描いて戻ってこられる、という具合に、かけ離れたものを結びつけて理屈で押し進めていく。この凝った比喩をコンシート(奇想)という。

音の運びも、それまでの滑らかな詩と違う。整った調べをわざと崩し、話し言葉のように途中で詰まる行を書いた。整った甘さより、思考が動いていく手ざわりを優先している。

世紀の後半に立つのがミルトンである。失楽園(1667年)は、アダムとエヴァが楽園を追われるまでを描く一万行を超える叙事詩で、全篇が無韻詩で書かれている。

刊行後、ミルトンは韻を使わなかった理由を説明する短い文を本に付け加えた。韻は詩に必要な飾りではなく、内容の乏しさと拙い韻律をごまかすために野蛮な時代が考え出したものだ、という趣旨のことを述べている。同じ頃のフランスでは、脚韻は動かせない前提だった。フランス詩人が韻を疑い始めるのは、ここから二百年後のヴェルレーヌを待つことになる。英語詩は、韻を必須としない道を早い段階で確保していた。

18世紀 — 二行で言い切る

十七世紀後半から十八世紀にかけて、詩の主流はに移る。弱強五歩格の二行を韻で組にし、その二行で意味も完結させる形式である。

確立したのがドライデンで、頂点に立つのがポープである。ポープはこの形式で詩論、風刺、翻訳を書いた。『髪盗人(The Rape of the Lock)』は、貴族の令嬢が髪を一房切られた騒動を、叙事詩の大仰な語り口で描く。神々の会議も、武具を身につける場面も出てくるが、扱われているのは化粧台とトランプ遊びである。大袈裟な器に小さな中身を入れるというやり方で、社交界の空虚さを笑った。

この形式が好まれたのは、対比を作りやすいからである。二行が韻で結ばれ、しかも各行が真ん中で区切れるため、前半と後半、一行めと二行めで、四つの部分を向かい合わせにできる。皮肉や逆説を組み立てるのに、これほど都合のよい枠はない。フランスで古典主義の悲劇が平韻を使ったのと同じ発想だが、英語のほうが二行ごとの切れ目をより強く効かせている。

世紀の半ばに、別の方向を示したのがグレイの「墓畔の哀歌(Elegy Written in a Country Churchyard)」(1751年)である。田舎の教会の墓地で、名を残さず死んだ村人たちを思う詩で、韻は四行ごとにABABで踏む。都市の社交界でも英雄でもなく、無名の人々を主題にした点で、次のロマン主義を先取りしている。

ロマン主義 — 実際に人が話す言葉で(1798年〜)

十八世紀の詩には、詩に用いてよい高雅な語という感覚があった。魚は「鱗ある族」、鳥は「羽ある種族」といった言い換えが好まれる。これを壊すところからロマン主義が始まる。

先駆けがブレイク無垢と経験の歌(1789年・1794年)である。童謡や讃美歌と同じ、ごく単純な調子で書かれているが、扱われているのは煙突掃除に売られた幼児や、飢えた子どもの列である。易しい形式に、重い中身を入れる書き方をとった。

上部に「The Tyger」の題と六つの四行連が手書きで並び、右に木の幹が伸び、下部に横向きの虎が立っている彩色版画。
ブレイク「虎」の一枚(1826年の刷り)。詩の文字と絵が同じ銅版に彫られ、一部ずつ手で彩色されている。詩は夜の森に燃える恐ろしい虎をうたうが、描かれた虎は目を丸くして穏やかに立っており、言葉と絵が食い違っている。

決定的だったのが抒情民謡集(1798年)で、ワーズワースコールリッジの共同の詩集である。1800年の第二版に付した序文でワーズワースは、詩は田舎の質素な生活を主題とすべきであり、詩の言葉は人々が実際に使っている言葉に近づけるべきだと主張した。巻頭に置かれたコールリッジの「老水夫行」は、口伝えの物語歌と同じバラッド律で書かれている。宮廷でも書斎でもなく、歌う調子の側から詩を作り直そうとしたのである。

ワーズワースはさらに、無韻詩を新しい用途に使った。序曲は、自分の心がどう育ってきたかを幼年期から順に述べる八千行の詩で、韻を踏まないために文が行をまたいで続き、考えながら話しているような運びになる。ミルトンが神と人類の物語に使った器を、一人の人間の記憶に転用した形である。

ここで注意が要る。ロマン主義は形式を捨てたわけではない。むしろ持ち込んだ形式の数は増えている。バイロンは長篇詩『ドン・ジュアン(Don Juan)』を、イタリア由来の八行連(オッターヴァ・リーマ)で書いた。八行のうち最後の二行が韻で組になる型で、そこへわざと無理のある滑稽な韻を置いて笑いを作る。シェリーは「西風に寄せる歌」でダンテの三行連を英語に移し、キーツは1819年の一連の頌詩で、ソネットの部品を組み替えた独自の連を作った。変わったのは詩に使ってよい語と、扱ってよい主題である。

音数の規則そのものに手をつけたのがコールリッジである。1816年に発表した『クリスタベル』の序文で、この詩の韻律は不規則ではなく新しい原理に基づくと述べた。各行で数えるのは音節ではなく強い音の数であり、弱い音は何個あってもよい、と。古英語の詩と同じ数え方への回帰が、ここで一度提案されている。実作としては徹底しなかったが、六十年後にこれを本格的に押し進める詩人が現れる。

ヴィクトリア朝 — 語らせる詩と、拍子の作り直し

十九世紀後半の詩は、形式を壊す方向ではなく、既存の枠のなかで何ができるかを探る方向へ進んだ。

テニスンは、英語の音を扱う技術において当時ほぼ無敵とされた詩人である。代表作イン・メモリアム(1850年)は、二十二歳で急死した親友を悼んで十七年かけて書いた131篇の連作で、全篇が同じ型で書かれている。八音節の行を四行ひと組にし、外側の一行めと四行めで、内側の二行めと三行めで韻を踏む。フランス詩でいう抱擁韻にあたる型で、四行が出発点に戻って閉じる。同じところを巡り続ける悲しみの形と、この型が重なっている。

ブラウニングが確立したのがである。詩人自身ではなく架空の人物が一人で語り続ける形式で、聞き手のいる場面が設定されている。「わが亡き公爵夫人」では、公爵が使者に亡き妻の肖像画を見せながら身の上を語るうち、妻の振る舞いが気に入らず殺させたことを、本人は罪の意識なく漏らしてしまう。語り手が言っている内容より、読者が読み取る内容のほうが多いという仕掛けで、この構造は後にエリオットへ受け継がれる。

そしてホプキンズである。イエズス会の司祭として生き、詩はほとんど発表しなかった。用いたのは、一行に置く強い音の数だけを決め、あいだの弱い音は何個入ってもよいとする書き方で、自らと名づけた。これは新発明ではなく復活で、古英語の詩と英語の童謡がもともと持っていた数え方に戻ったものである。同じ理由から頭韻を多用し、古英語の詩に近い、子音の詰まった響きを作った。

ホプキンズの詩が刊行されたのは、死から二十九年後の1918年である。ヴィクトリア朝に書かれた詩が、モダニズムの真っ只中で初めて読まれた。同時代の詩人たちはこれを過去の遺物とは受け取らず、自分たちと同じ方向を向いた詩として迎えた。

20世紀 — 自由詩とモダニズム

音数も韻も定めない詩を英語圏に持ち込んだのは、イギリスの詩人ではない。アメリカのウォルト・ホイットマンが、詩集『草の葉』(1855年)で、韻律を持たない長い行を並べ、同じ語の繰り返しで調子を作る書き方を示した。当時のイギリスではほとんど相手にされなかったが、半世紀後に効いてくる。

1910年代、ロンドンでが唱えられる。中心にいたアメリカの詩人エズラ・パウンドらが掲げたのは、説明や感傷を捨て、事物のイメージを一つ正確に示すこと、そして節拍器ではなく音楽の句の順序で作ることだった。この最後の一項が、定型からの離脱を意味している。

到達点がエリオット荒地(1922年)である。第一次大戦後のロンドンを舞台に、脈絡なく見える断片を並べ、複数の言語と過去の文学からの引用を挟み込む。一篇を一つの声で通すのをやめた詩で、以後の英語詩の書き方を変えた。ただし全篇が自由詩というわけではなく、弱強五歩格の影が随所に残り、押韻する箇所もある。定型を捨てたのではなく、必要に応じて出し入れしている。

同じ時期に、逆の道を選んだのがイェイツである。生涯にわたって韻と音数の規則を守り続けたが、その詩は古めかしくならなかった。晩年の作品ほど言葉が硬く直接的になり、モダニズムの詩人たちからも同時代の詩人として遇されている。定型を守ることと、現代の詩であることは両立するという実例になった。

1930年代のオーデンの世代は、この両方を受け継ぐ。オーデンはソネットからバラッドまで伝統的な形式を自在に扱いながら、そこへホプキンズ経由の頭韻と、政治や心理学の語彙を持ち込んだ。

戦後 — 日常の声と、古英語への回帰

第二次大戦後、モダニズムの難解さへの反動として、平明な言葉で日常を書く詩が現れる。ラーキンがその代表で、扱う場所は列車、病院、閉店した教会といった何でもない場所であり、語り口は身も蓋もない。ただし形式は保守的で、きちんと韻を踏んだ連で書かれている。言葉は日常のもの、器は伝統的なものという組み合わせをとった。

もう一方に、自然と暴力を直接的な語彙で書いたテッド・ヒューズ(1930-1998)がいる。鷹や烏や豚を主題に、荒々しい子音の連なりで書き、ここでも古英語的な響きが復活している。

そしてヒーニーが、1999年にベーオウルフの現代英語訳を刊行した。古英語の頭韻の運びを保ちながら、北アイルランドの日常語を織り込んだ訳で、詩集としては異例の部数で読まれている。千年前の頭韻詩が、二十世紀の終わりに詩集の売れ筋として戻ってきたことになる。

三度、外から形式が来た歴史

最後に、日本・フランスと並べて、イギリス詩の際立つ点を整理しておく。

数えるもの行末の韻定型が外れた時期
日本音の数(五・七)もともと踏まない外れていない。俳句と短歌は現役
フランス音節の数(十二)必須だった1880年代
イギリス強く読む音の数(五)あってもなくてもよい1910年代

三つを並べると、イギリス詩の特徴が二つ見える。

一つが、韻が早い段階で任意になっていたことである。十六世紀に無韻詩が生まれ、十七世紀にミルトンが韻は要らないと公言した。フランス詩で同じことが起きるのは十九世紀末である。この差があったため、二十世紀に自由詩が入ってきたときも、イギリスでは形式をめぐる正面衝突にならなかった。

もう一つが、主要な形式がほとんど外から来たことである。脚韻はフランス語から、ソネットとオッターヴァ・リーマはイタリアから、自由詩はアメリカから入った。イギリス詩の歴史は、規則を自前で立てて壊す歴史というより、外から来た形式を英語の強弱に合わせて作り直す作業の連続だった。サリー伯がイタリア式ソネットを英語向きに組み替えた仕事が、その典型にあたる。

そして最も古い層である古英語の頭韻詩は、途切れたまま終わらなかった。コールリッジが数え方を提案し、ホプキンズが実作で押し進め、二十世紀の詩人が語彙の手ざわりとして受け継ぎ、最後にヒーニーが原典そのものを訳し直した。外から入ってきた形式の下で、九百年ぶりに元の拍子が浮かび上がってくる——これがイギリス詩の、もう一つの筋である。