ジェラード・マンリー・ホプキンズ
- 原綴
- Gerard Manley Hopkins
- 生没
- 1844–1889
- 出身
- エセックス州ストラトフォード(現・ロンドン東部)
- 国
- イギリス
- 時代
- ヴィクトリア朝
生涯
1844年、ロンドン近郊の裕福な英国国教会の家に生まれた。父は海上保険業を営むかたわら詩集を出しており、絵と詩に親しむ家庭だった。オックスフォード大学に進み、当時カトリックへ移って波紋を呼んでいた神学者ジョン・ヘンリー・ニューマンの影響を受ける。1866年、22歳でカトリックに改宗した。
1868年にイエズス会へ入る。このとき、それまでに書いた詩の原稿を焼き、以後は詩を書かないと決めた。聖職者の務めと詩作は両立しないと考えたためである。
沈黙は七年続いた。1875年、ドイツから追放された修道女五人を乗せた船ドイッチュラント号がテムズ河口で難破し、全員が溺死する。この事件を知った上長が、誰か詩に書く者はいないかと漏らしたのを許可と受け取り、長詩『ドイッチュラント号の難破(The Wreck of the Deutschland)』を書いた。イエズス会の機関誌に送ったが、あまりに型破りだとして掲載を断られている。
以後も詩を書き続けたが、発表はほとんどしなかった。リヴァプールなどの貧民街で司牧にあたり、その悲惨さに精神を消耗する。晩年はダブリンの大学でギリシャ語を教え、孤独と無力感を綴った詩を残した。1889年、腸チフスにより44歳で死去した。
作風
英語の詩は、弱い音と強い音を交互に置き、一行あたりの音節の数をそろえるのが原則だった。ホプキンズはこれをやめ、一行に置く強い音の数だけを決め、弱い音は何個入ってもよいという書き方をとる。自らと名づけた。
これは新発明ではなく、復活である。古英語の詩や、英語の童謡・わらべ歌は、もともと強い音の数で拍子を取っていた。ホプキンズはそこへ戻ろうとした。同じ理由から、行のなかで語頭の音をそろえるを多用し、古英語の詩に近い響きを作っている。
主題は自然と信仰である。鷹の飛翔、まだら模様の事物、樹木の伐採といった具体的な対象を、細部まで凝視して描く。ホプキンズはそうした事物それぞれが持つ固有の形を「インスケープ(inscape)」と呼び、それを捉えることが神を捉えることだと考えた。ただし晩年の一群の詩は、神の不在と絶望を扱い、ひどく暗い。
作品
生前に活字になった詩はごくわずかである。原稿は友人で桂冠詩人のロバート・ブリッジズが預かっていた。ブリッジズは、この詩が世に受け入れられるには時間が要ると判断して発表を控え、死後29年たった1918年になって『詩集(Poems)』を編んで刊行した。
代表作に、鷹が風に乗って旋回する姿からキリストの受難を見る「はやぶさ(The Windhover)」、まだら模様の事物すべてを讃える「まだらな美(Pied Beauty)」、ポプラ並木の伐採を悼む「ビンジーのポプラ(Binsey Poplars)」がある。晩年の絶望を刻んだ一群は「恐ろしいソネット(Terrible Sonnets)」と総称される。
文学史における立ち位置と影響
1918年の刊行は、時期として異例だった。ヴィクトリア朝に書かれた詩が、モダニズムの真っ只中に初めて読まれたのである。同時代の詩人たちは、これを過去のものではなく、自分たちと同じ方向を向いた詩として受け取った。
とりわけ1930年代のオーデンらの世代が強い影響を受け、頭韻と強勢の詩法を取り入れた。音節を数える詩から、強い音を数える詩へという転換において、ホプキンズは自由詩とは別のルートを示したことになる。自由詩がリズムの規則そのものを捨てたのに対し、ホプキンズは規則を残したまま、英語本来の拍子へ戻した。
生前に一冊も詩集を出さず、死後に評価が決まった詩人の代表例としても挙げられる。