サリー伯ヘンリー・ハワード

原綴
Henry Howard, Earl of Surrey
生没
1517–1547
出身
ハンティンドンシャー州ハンティンドン(ロンドン北・約100km)・推定
イギリス
時代
ルネサンス

生涯

1517年、イングランド屈指の名門ノーフォーク公爵家の嫡男として生まれた。王家に連なる血筋で、幼少期をヘンリー八世の庶子とともに過ごし、フランス宮廷にも滞在している。古典語とイタリア語を身につけた、当時としては最高水準の教育を受けた。

軍人としてスコットランドやフランスの戦線に加わったが、1546年にブローニュの攻囲戦で失態を犯して召還される。折しも王の死期が迫り、次代の実権をめぐって宮廷の対立が激化していた。ハワード家の勢力を恐れる勢力から、王家の紋章を自らの紋章に組み入れたことを反逆の証拠として告発される。1547年1月、29歳で斬首された。ヘンリー八世が死ぬ、わずか9日前のことである。

作風

ワイアットの詩が不揃いで荒いのに対し、サリーの行は弱強のリズムがなめらかに揃う。同じイタリア由来の形式を用いながら、英語の語の自然な強弱に合わせて整えた。以後の英語詩の音の基準は、こちら側から始まっている。

主題は恋愛のほか、友人の死を悼む詩、獄中で過去を回想する詩など幅が広い。感情を誇張せず、抑えた調子で述べる書き方をとる。

作品

詩は生前に印刷されず、死後10年の1557年、『トテルの詞華集(Tottel's Miscellany)』に40篇が収められて世に出た。ワイアットの作と並べて印刷されたことで、この二人は英語詩の新しい出発点として一括りに受け取られた。

もう一つの仕事が、古代ローマの詩人ウェルギリウスの叙事詩アエネイスの翻訳である。第二巻と第四巻を英語に移し、1550年代に刊行された。この翻訳で用いたのが、弱強五歩格を保ちながら韻をいっさい踏まない形式、すなわちだった。

文学史における立ち位置と影響

英語詩に二つの型を与えた。

一つがの組み替えである。イタリア式のソネットは4行・4行・3行・3行に分かれ、同じ韻を何度も繰り返す。だが英語はイタリア語より同じ響きの語が少なく、この型は書きにくい。サリーは14行を4行・4行・4行・2行に分け、それぞれ別の韻を使う形に変えた。この型が普及し、後にシェイクスピアが用いたことから「シェイクスピア型ソネット」と呼ばれる。名称に残らなかったが、形を作ったのはサリーである。

もう一つが無韻詩である。この翻訳で用いた形式を、後にマーロウシェイクスピアが劇の台詞に採用し、ミルトン失楽園で叙事詩に用いた。英語の詩と劇を数百年にわたって支えた器が、29歳で処刑された貴族の翻訳から出ている。

登場する文学史