T・S・エリオット
- 原綴
- Thomas Stearns Eliot
- 生没
- 1888–1965
- 出身
- セントルイス(アメリカ)
- 国
- イギリス
- 時代
- 20世紀以降
生涯
1888年、アメリカのセントルイスに生まれた。ニューイングランド出身の名家で、祖父は大学の創立者である。
ハーヴァード大学で学び、パリとオックスフォードに留学した。哲学の学位論文を書き上げたが、口述試験のために帰国することなく、そのままイギリスに留まった。
1915年、ヴィヴィアン・ヘイウッドと結婚する。この結婚は破綻した。妻は精神を病み、1938年に施設へ入れられ、そこで死んでいる。エリオットは1933年に別居を決めて以後会わなかった。この扱いをめぐっては後に批判が向けられている。
生活のためロイズ銀行に勤め、外国為替の部門で働きながら詩を書いた。1922年に荒地を発表する。1925年に出版社フェイバー社へ移り、以後は編集者として同時代の詩人を世に出す役割も担った。
1927年、イギリス国籍を取得し、英国国教会に入信した。自らを「文学では古典主義、政治では王党派、宗教では英国国教会」と規定した言葉が知られる。急進的な詩の実験者が、極度に保守的な立場を表明したことになる。
1948年、ノーベル文学賞を受賞した。1957年、30歳年下の秘書ヴァレリーと再婚し、晩年は穏やかだったと伝えられる。1965年、76歳で死去した。
作風
エリオットの詩は、断片の集積として組み立てられている。
『荒地』では話者が次々に変わり、誰が話しているか明示されない。場面も唐突に切り替わる。ロンドンの街、船上、聖杯伝説の荒れ地。そこへ引用が大量に埋め込まれる。ダンテ、シェイクスピア、聖書、古代インドの聖典ウパニシャッド、酒場の俗謡。英語以外の言語が訳なしで混ざり、ドイツ語、フランス語、イタリア語、サンスクリットが並ぶ。
つなぐ言葉を置かないのが特徴である。場面と場面のあいだにある関係は説明されず、読者が組み立てることになる。エリオット自身が註をつけたが、この註は分かりやすくするというより、さらに読者を惑わせる面があると指摘されてきた。
初期の詩には別の面もある。『プルーフロックの恋歌』は、踏み出せない中年男の独白で、自意識と社交の空虚さが皮肉な調子で書かれる。日常の卑近な事物——珈琲のスプーン、霧、階段——が、感情の代わりに置かれる。
後期には調子が変わる。『四つの四重奏』は宗教的な色彩が強く、時間と永遠を主題にして、瞑想的な長い文が続く。
批評では、詩から作者の人格を切り離すことを主張した。詩は感情の解放ではなく、感情からの逃避である、という言い方をしている。感情を直接述べるのではなく、それを引き起こす事物や状況の組み合わせによって示す——これを「客観的相関物」と呼んだ。
作品
『プルーフロックの恋歌』(1915年)
初期の代表作である。
荒地(1922年)
四百三十行ほどの詩である。第一次大戦後のヨーロッパの精神的な荒廃を書いたものというのが一般的な読み方にあたる。冒頭の「四月は最も残酷な月」が有名で、通常なら再生を意味する春が、ここでは死んだものを掘り起こす季節として現れる。中心にあるのは繋がりの喪失である。人が会話しても噛み合わず、性的な関係に愛がなく、都市の群衆が死者のように橋を渡る。最後の一節はサンスクリットの「シャンティ」で終わる。
ただしこの作品を時代の診断としてだけ読むことには、本人が留保をつけている。後年、個人的で意味のない不平の一片だったという趣旨の発言をした。執筆当時、妻との関係と自身の精神状態が破綻していた時期にあたる。
成立にはエズラ・パウンドが決定的に関与している。原稿は元の半分ほどに削られた。パウンドが大幅に切り、構成を変えている。エリオットは献辞に「よりすぐれた工匠に」と記した。共同作業の産物をどう扱うかという問題として、この経緯はしばしば論じられる。
『四つの四重奏』(1935〜42年)
後期の代表作で、時間と永遠を主題にした四篇の連作である。
『寺院の殺人』(1935年)
詩劇で、トマス・ベケットの殉教を扱う。
『ポッサムおじさんの猫とつき合う法』(1939年)
軽い詩集で、後にミュージカル『キャッツ』の原作になった。本人の意図とは無関係に、最も多くの人に届いた作品と言える。
批評では「伝統と個人の才能」(1919年)が最も読まれている。
文学史における立ち位置と影響
エリオットは、詩と批評の両方で20世紀前半の英語圏の文学を規定した。
荒地は英語詩の風景を変えた。断片をつなぐという方法、大量の引用、説明の省略。以後の詩人は、この作品を通過した後の言語で書くことになった。モダニズムの詩の代表作として、ジョイスのユリシーズと同じ1922年に発表されたことも繰り返し指摘される。
批評は詩の評価の序列そのものを組み替えた。「感受性の分離」——17世紀のダンら、奇抜な比喩で思考を詩にした形而上詩人においては思考と感情が一体だったが、その後の英詩でそれが分裂したという主張である。これによって形而上詩人の地位が上がり、ミルトンとロマン派の地位が下がった。エリオット自身、後にミルトンへの評価を修正している。
「伝統と個人の才能」で示された考え方も広く受け入れられた。過去の作品の全体が一つの秩序をなしており、新しい作品が加わるとその秩序が組み替えられる、というものである。「客観的相関物」とともに、これらの用語は20世紀の英語圏の批評の共通語になった。作者の伝記や時代背景を持ち込まず、作品の言葉だけを精密に読むアメリカのニュー・クリティシズムは、この立場を批評の方法として体系化した。
初期の詩と講演に反ユダヤ主義的な表現があることは、長く議論の対象になってきた。弁護する立場、当時の一般的な偏見の反映と見る立場、作品の評価と切り離せないとする立場が並存している。セリーヌの場合と同様、決着していない問題である。
日本では西脇順三郎らが早くに紹介し、戦後の詩に影響した。『荒地』の名を掲げた同人誌「荒地」は、戦後日本の詩の重要な拠点になっている。