イン・メモリアム
- 原題
- In Memoriam A.H.H.
- 作者
- アルフレッド・テニスン
- 成立
- 1850
- 国
- イギリス
- 時代
- ヴィクトリア朝
概要
短い詩を131篇、番号順に並べた一冊である。物語ではないが、通して読むと悲しみが少しずつ形を変えていくのが分かる構成になっている。前後に序詩と結びの詩が付く。
主題は一人の友人の死である。テニスンがケンブリッジ大学で親友になったアーサー・ヘンリー・ハラムは、詩人の妹と婚約していたが、1833年、旅行先のウィーンで脳出血により22歳で急死した。テニスンはその直後から断片的に詩を書き始め、17年かけて書きためたものを1850年に刊行した。当初は作者名を伏せている。
形式は全篇を通じて統一されている。8音節の行を4行ひと組にし、韻を外側の1行めと4行めで、内側の2行めと3行めでそろえる(ABBA)。外側が内側を抱え込み、四行が出発点に戻って閉じる型である。歩き出してもとの場所に帰ってくる形が、同じところを巡り続ける悲嘆と重なる。この型は以後「イン・メモリアム連(In Memoriam stanza)」と呼ばれるようになった。
書かれているのは追悼だけではない。当時の地質学は、聖書の記述よりはるかに古い地球の年齢と、無数の種の絶滅を明らかにしつつあった。個々の生命に頓着しない自然を前に、神と来世を信じられるかという問いが繰り返し現れる。
文学史における評価と影響
ヴィクトリア朝を代表する詩とされる。理由は主題の広さにある。個人の悲しみを書きながら、時代全体の信仰の危機を書いている。
自然を、牙と爪を血に染めたものとして描いた一節がよく引かれる。ここでいう自然は、個体はおろか種そのものにも無関心であり、人間だけを特別扱いしない。この認識は、進化論を唱えたチャールズ・ダーウィンの『種の起源』(1859年)より9年早い。進化論以前に、地質学だけですでにこの衝撃が届いていたことを記録している。信仰を捨てるのでも、疑いを封じるのでもなく、疑いながら信じ続けるという態度を示した点が同時代に受け入れられた。
刊行の反響は大きく、テニスンは同じ1850年に桂冠詩人に任じられた。ヴィクトリア女王は夫アルバート公の死後、この詩に慰められたと語ったと伝えられる。
一方で、感傷に流れているという批判も早くからあった。20世紀のモダニズムの詩人たちはヴィクトリア朝の詩を総じて低く見たが、エリオットはこの作品を例外として高く評価し、信仰の詩ではなく疑いの詩として読むべきだと述べている。
内容
冒頭の数篇は、死の知らせを受けた直後の混乱を扱う。悲しみを言葉にすること自体への疑いが繰り返される。言葉は悲しみを覆う衣にすぎない、と述べる篇がある。
続いて、遺体を乗せた船がイタリアからイギリスへ運ばれてくる航海が歌われる。海の様子と、棺を運ぶ船を思い描く篇がいくつも並び、待つ時間の長さが形になる。
中盤では、時間が経つにつれて悲しみが薄れていくことへの罪悪感が扱われる。忘れまいとする努力と、実際には記憶が薄れていく事実とのずれ。あわせて、死者はどこにいるのか、人格は死後も残るのかという問いが、当時の科学の知見と突き合わせて論じられる。
三度めのクリスマスを描く篇を境に、調子が変わる。悲しみは消えないが、生き続けることを引き受ける方向へ向かう。友の死を経たことで自分は以前より深くなった、という認識が示される。
結びは、テニスンの妹の結婚式である。ハラムと婚約していた妹ではなく、別の妹の婚礼が歌われる。喪失から始まった詩が、新しい生命が生まれることへの期待で終わる形になっている。