吾輩は猫である

作者
夏目漱石
成立
1905-1906
日本
時代
近代

概要

1905年から翌年にかけて、俳句雑誌『ホトトギス』に連載された長篇小説である。漱石38歳の作で、事実上のデビュー作にあたる。名前のない飼い猫が語り手をつとめ、飼い主である中学教師とその家に集まる人々を観察する。まとまった筋はなく、猫の目に映った会話と出来事が続いていく。当初は一回で終わる読み切りだったが、評判を受けて連載になり、十一回まで書き継がれた。

漱石はイギリス留学から帰国後、東京帝国大学で英文学を講じていた。神経を病んでおり、気分の転換を勧めた高浜虚子のすすめで書いたのが、この作品である。1905年1月、虚子が主宰する俳句雑誌『ホトトギス』に発表された。

読み切りのつもりだったが評判がよく、続篇を求められて連載になった。中学教師の苦沙弥は漱石自身を、迷亭や寒月は周囲の人物を思わせるところがあり、当時の読者はそれを承知で読んだ。

連載中の1907年、漱石は大学の職を辞して朝日新聞社に入る。この作品の成功が、職業作家として立つ判断を支えた。

文学史における評価と影響

猫を語り手に据えたことで、人間の営みを外側から眺める視点が手に入っている。猫には利害がなく、人間社会の格や見栄と無関係である。そのため、教師や学者のもったいぶった議論が、そのまま滑稽に見えてくる。批評を直接書かず、視点の置き方だけでそれを成立させた作品である。

文章は、江戸の戯作や落語の話芸の調子を引いている。「吾輩は猫である。名前はまだ無い」という冒頭は、声に出して読める文体の見本として広く知られる。同時期に二葉亭四迷らが苦心していた言文一致とは別の方向から、読ませる日本語を作った例にあたる。

漱石の作品としては例外的に明るい。この後、坊っちゃんを経て作風はしだいに暗くなり、こころでは罪を抱えた男の自死に至る。同じ作家の十年の振れ幅を示すものとして、両端に置かれることが多い。

猫が水に落ちて死ぬ結末は、軽妙な調子で進んできた作品を唐突に閉じる。連載を打ち切るための処理とも、初めから用意された終わりとも読まれており、解釈が分かれている。

著作権保護期間は満了しており、青空文庫で全文を読める。

あらすじ

語り手は猫である。生まれてすぐ捨てられ、中学教師の苦沙弥(くしゃみ)先生の家に住みついた。名前はまだない。

苦沙弥は胃弱で気難しく、書斎にこもっては居眠りをしている。その家には客がよく来る。美学者の迷亭(めいてい)は口から出まかせの法螺を吹き、理学者の寒月(かんげつ)は「首縊りの力学」といった珍妙な研究の話をする。猫は畳の上からこれを聞き、人間という生き物の愚かさを論評する。

物語らしい出来事は少ない。近所の実業家の一家が娘の縁談をめぐって苦沙弥を悩ませ、書生たちが庭に押しかけて騒動になる。寒月の結婚話が持ち上がっては流れる。そうした些事の合間に、猫の観察と皮肉が挟まれていく。

終盤、苦沙弥の家に集まった面々が、それぞれの近況を語り合う。その後、一人残された猫は、飲み残しのビールを舐めて酔い、水甕に落ちる。這い上がろうとするが、爪が掛からない。やがて抵抗をやめ、楽になった、ありがたいと念じながら沈んでいく。

作者

登場する文学史