アレクサンドル・デュマ(大デュマ)

縮れた髪と口ひげで、チョッキに鎖を垂らしたアレクサンドル・デュマの肖像写真。
原綴
Alexandre Dumas
生没
1802–1870
出身
エーヌ県ヴィレル=コトレ
フランス
時代
19世紀

生涯

パリ北東のヴィレル=コトレに生まれた。父トマ=アレクサンドルはナポレオン軍の将軍。サン=ドマング(現ハイチ)で、フランス人貴族と黒人奴隷の女性の間に生まれた混血。父はナポレオンと不和になって失脚し、デュマが3歳のときに死去した。一家は困窮し、正規の教育はほとんど受けていない。

20歳前後でパリに出た。劇作家として世に出る。1829年の史劇『アンリ三世とその宮廷』が当たった。小説に移るのは1830年代後半、新聞連載が始まってからになる。

1844年から46年にかけて三銃士モンテ・クリスト伯が相次いで連載され、収入が急増した。パリ郊外にモンテ=クリスト城と名づけた邸宅を建てる。だが浪費と事業の失敗で破産し、1851年には債権者を逃れてベルギーに移った。

1860年前後にはイタリアに渡った。バラバラだったイタリアを一つの国にまとめようとしたガリバルディの運動を支援し、現地で新聞を発行している。

1870年、息子の家で死去。2002年、生誕200年にあたって遺骨がパンテオンに移された。国家が功績を認めた人物を葬るパリの霊廟である。

『椿姫』の作者アレクサンドル・デュマ・フィス(小デュマ)は息子であり、別人である。

作風

小説の多くは新聞連載として書かれた。

読者に翌日も新聞を買わせる必要がある。そのため各回の末尾には、続きの気になる場面を置く。人物の内面には立ち入らず、行動と会話で話を進める。当時の連載は行数で原稿料が決まったので、短い台詞を重ねる書き方は収入の面でも有利だった。

歴史小説では、実在の人物と事件を骨組みにして、そこへ架空の人物と陰謀を織り込む。史実の正確さより筋の運びを優先しており、同時代からその点への批判はあった。

著作は膨大で、一人で書ける量ではない。共作者がおり、とくにオーギュスト・マケが史料調査と筋の下書きを担った。デュマはそこに会話と描写を加えて仕上げる。マケは後に著作者としての権利を求めて訴訟を起こした。報酬は認められたが、共著者としての表示は認められなかった。同時代には「小説工場」という中傷もあった。工房方式そのものは当時の演劇や出版で珍しくなく、完成した文章の魅力はデュマのものだという見方が今日では一般的である。ただしマケの寄与を過小に扱ってきた経緯には、見直しが進んでいる。

作品

三銃士(1844年)

17世紀前半のフランスが舞台。ガスコーニュから出てきた青年ダルタニャンが、アトス・ポルトス・アラミスの三人の銃士と友情を結ぶ。実在の宰相リシュリューを敵役に置き、王妃の首飾りをめぐる虚構の事件を走らせた。史実の骨組みに虚構を織り込むこの作り方が、以後の歴史冒険小説の型になる。続篇に二十年後ブラジュロンヌ子爵があり、三部作をなす。

モンテ・クリスト伯(1844〜46年)

無実の罪で14年間投獄された船乗りエドモン・ダンテスの物語。脱獄して莫大な富を得て、自分を陥れた三人に復讐する。陥れられ、耐え、力を得て戻り、標的を一人ずつ追い詰める。この筋立ては復讐譚の原型として、以後の小説・映画・漫画に繰り返し使われている。ただし単純な勧善懲悪では終わらない。復讐が無関係の人物を巻き込み、主人公自身がそれに苦しむ場面が置かれている。

このほか王妃マルゴなどフランス史を扱った長篇、旅行記、料理事典『料理大辞典』がある。

文学史における立ち位置と影響

新聞連載小説という形式を確立した一人である。1836年、フランスの新聞が購読者を増やすために紙面の下段で小説の連載を始めた。デュマはこの形式で最大の成功を収め、それまで本を買わなかった層を読者にする。近代の大衆読者という市場は、この時期に形を得た。

歴史小説の作り方も広めた。史実の人物と事件を骨組みにし、そこへ架空の人物と陰謀を織り込む。この配合は歴史冒険小説の標準になり、日本の時代小説にも及んでいる。

モンテ・クリスト伯の筋立ては、復讐譚の原型として今日まで反復されている。翻案の数も多い。映画・テレビ・漫画への翻案は、フランス文学の作家のなかで最も多い部類に入る。

一方で、長く文学史の本流から外して扱われてきた。大衆向けであること、作品数が多いこと、共作であること、心理描写が浅いことが理由に挙げられる。同時代のバルザックフローベールが文学として論じられるのに対し、デュマは娯楽の側に分類された。この区分は20世紀後半から問い直されている。物語を運ぶ技術として評価する見方、連載・引き・分業という仕組みを近代の出版産業の成立として捉える見方がある。2002年のパンテオン改葬は、国民的作家として公式に位置づけ直す動きだった。その際、人種を理由に受けた差別にも言及があった。

日本での受容は早い。モンテ・クリスト伯は黒岩涙香が『巌窟王』の題で翻案し、1901年から新聞に連載された。原作の忠実な翻訳ではなく人名や設定を日本風に改めたものだが、これによって広く知られるようになった。三銃士とともに、児童向けの抄訳で読んだ読者が多い。

作品

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