ギ・ド・モーパッサン

大きな口ひげをたくわえたギ・ド・モーパッサンの肖像写真。
ナダール撮影(1888年)
原綴
Guy de Maupassant
生没
1850–1893
出身
セーヌ=マリティーム県(ノルマンディー)
フランス
時代
19世紀

生涯

1850年、ノルマンディーの旧家に生まれた。両親は不仲で、11歳のときに別居している。以後は母のもとで、海辺の田舎を歩き回って育った。この土地の農民や漁師が、後の短篇の主要な素材になる。

母の幼馴染がフローベールだった。この縁で、20代のモーパッサンは文章の指導を受ける。フローベールは月に一度原稿を見て、正確な言葉を探すこと、対象を他の何とも違うものとして捉えることを繰り返し説いたとされる。

20歳のとき普仏戦争に従軍した。フランスの敗北と、住民が戦争にどう振る舞ったかを間近で見ている。出世作脂肪の塊はこの経験から出た。戦後は海軍省と文部省の役人として働きながら書き、10年近く発表せずに訓練を続けた。

1880年、短篇脂肪の塊を発表する。一夜で評価が確立し、役人を辞めて専業になった。以後10年ほどで約300篇の短篇と6篇の長篇を書く。売れ行きは良く、ヨットを買い、各地を旅した。

若い頃に感染した梅毒が、後年に神経を侵した。1880年代後半から幻覚と頭痛に苦しみ、1892年に自殺を図る。パリの精神科病院に収容され、翌1893年に43歳で死去した。

作風

モーパッサンは、説明を書かず、事実だけを並べる。フローベールから受け継いだのは、作者の判断を文章に出さない態度である。人物を批評せず、道徳的な結論も書かない。何が起きたかだけを提示し、意味は読者に委ねる。

短篇の構成には型がある。日常の場面から入り、淡々と進み、最後の数行で読者の理解が反転する。「首飾り」がその代表である。貧しい役人の妻が、舞踏会のために友人からダイヤの首飾りを借りて紛失する。夫婦は借金をして同じ品を買って返し、10年かけて返済し、若さと生活を失う。最後に友人と再会したとき、借りた首飾りが模造品だったと告げられて終わる。この一行のために全体が設計されている。

扱う階層は広い。ノルマンディーの農民、パリの下級役人、娼婦、船乗り、貴族。とくに下層の人物を、憐れみも美化もなしに書く。脂肪の塊では、普仏戦争下の乗合馬車が舞台になる。同乗した上流の人々は娼婦を蔑んでいるが、プロイセン将校に足止めされると、彼女に身を差し出すよう説得する。目的が達せられると、再び彼女を無視して食事を分けようともしない。尊厳を守ったのが誰で、それをどう扱ったのが誰かが、説明抜きで示される。

怪奇短篇も書いている。「オルラ」は、目に見えない何かが自分に取り憑いていると確信していく男の手記で、精神が壊れる過程を内側から書いた作品として読まれている。晩年の本人の症状と重ねて論じられることが多い。

作品

脂肪の塊(1880年)

出世作である。ゾラを囲む若手作家の短篇集『メダンの夕べ』に収録された。フローベールがこれを絶賛する手紙を送っている。

女の一生(1883年)

最初の長篇である。夢を持って結婚した貴族の娘が、夫の裏切り、息子の放蕩、家産の喪失を経て老いていく。特別な事件ではなく、平凡な人生が削られていく過程を書く。

首飾り(1884年)

結末の反転で最もよく知られた短篇である。

ベラミ(1885年)

長篇で、容姿と女性関係を使って新聞業界を上り詰める青年を描く。ジャーナリズムと政治の腐敗を扱う点で、バルザックの『幻滅』と並べられる。

オルラ(1887年)

怪奇短篇である。

文学史における立ち位置と影響

モーパッサンは近代短篇小説の型を作った一人である。短い分量で、無駄なく状況を立ち上げ、結末で意味を転換する。この構成は以後の短篇の標準的な型になり、今日の短篇小説やショートショートにも受け継がれている。

同時代のロシアのチェーホフと並べられることが多いが、方法は対照的である。

結末の扱い
モーパッサン最後で反転させる。構成が閉じる
アントン・チェーホフ結末をつけない。何も解決しないまま終わる

どちらも近代短篇の源流だが、進んだ方向は逆になっている。

自然主義に分類される。ゾラの周辺にいたが、理論には距離を取っていた。遺伝と環境の科学的な追跡という枠組みより、個々の人間を正確に観察することに関心があった。

日本での影響はとくに大きい。明治期に翻訳され、短篇の書き方の手本として受容された。日本の自然主義の作家たちが直接学んでおり、教科書に「首飾り」が採られたことで、原作を読んでいない層にも筋が知られている。

作品

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