中国唐宋

中国文学 唐宋

通史では、この時代を「詩の頂点と、制度」と要約した。ここではその中身を開く。

唐代の詩は、中国文学の頂点として扱われる。 その背景に制度がある。

科挙という条件

科挙は官僚を試験で採用する制度である。唐代にはその科目に詩賦の作成が含まれた。

つまり、詩を作る能力が、出世の条件だった。

この制度の効果は大きい。支配層の全員が詩の訓練を受けている。 詩は特殊な才能の産物ではなく、教養ある人間の標準的な技能になった。役人同士が詩を贈答し、送別に詩を作り、宴席で唱和する。

膨大な量が作られ、その中から傑作が残った。 唐代の詩を集めた『全唐詩』には四万八千首以上が収録されている。

制度が文学を支えたが、同時に形式も規定した。 平仄と対句の規則が厳格に定まった近体詩(律詩・絶句)が完成する。

唐の詩人たち

李白(李白)は、酒と月と旅を歌った。規則に収まらない自由な調子が特徴で、古体詩を得意とした。宮廷に召されたがすぐに追われている。「詩仙」と呼ばれる。

杜甫(杜甫)は対照的である。安史の乱で流浪し、戦乱と飢餓、離散した家族、民衆の苦しみを書いた。形式は厳密で、律詩の完成度が極めて高い。「詩聖」と呼ばれ、生前の評価は低かったが、後世で最高位に置かれた。

この二人を並べて論じるのが中国詩の伝統的な枠組みである。 天才の奔放と、苦悩の精緻。

王維(王維)は画家でもあり、仏教に傾倒した。風景の描写だけで、人のいない静けさを出す。 「詩中に画あり」と評された。

白居易(白居易)は、平易な言葉で書くことを意識した。 老婆にも分かる語で書いたという逸話が伝わる。『長恨歌』は玄宗と楊貴妃を主題にした長篇の叙事詩である。

彼の詩は日本で圧倒的に読まれた。 源氏物語をはじめ、平安文学は白居易の詩を前提にしている箇所が多い。中国本土での位置づけより、日本での影響のほうが大きいと言えるほどである。

散文の改革

韓愈(韓愈)は古文運動を起こした。

当時の散文は駢文——四字・六字の対句を連ね、典故を凝らす華麗な文体——が主流だった。内容より形式が優先される。

韓愈はこれに反対し、古代の平明な文章に戻ることを主張した。 儒学の復興と結びついた運動である。「文は道を載せる」という考え方が後の規範になる。

宋 — 詞と、士大夫の文学

宋代に入ると、詩とは別にが発達する。

もとは歌謡の歌詞である。 決まった曲調(詞牌)に合わせて字数と平仄が定まっており、句の長さが不揃いになる。 詩より口語に近く、恋や別離といった私的な感情を扱いやすい。

蘇軾(蘇軾)は、詩・詞・散文・書・画のすべてに優れた。士大夫(読書人であり官僚である階層)の理想像として扱われる。政治的な対立で繰り返し左遷され、その地で作った作品が高く評価されている。詞の主題を恋愛から拡げ、思想や風景を扱えるようにした。

李清照(李清照)は詞の作者として最高位に置かれる。女性の作者としては例外的な評価である。 金の侵攻で夫を失い、収集した書画骨董も散逸した。前期の明るい作品と、後期の喪失を書いた作品の落差が大きい。

辛棄疾(辛棄疾)は北方の失地回復を主張し続けた武人でもある。詞に激しい政治的情念を持ち込んだ。

欧陽脩(欧陽脩)は散文と史書の両面で活躍し、韓愈の古文の路線を継いだ。

この時代をどう読むか

中身
制度が支えた科挙が詩を支配層の標準技能にした
二つの極李白の奔放と杜甫の精緻
日本への影響白居易が平安文学の前提になった
新しい形式宋代の詞は不揃いな句で私的な感情を扱った

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