フリードリヒ・シュレーゲル
- 原綴
- Friedrich Schlegel
- 生没
- 1772–1829
- 出身
- ハノーファー
- 国
- ドイツ
- 時代
- 古典主義・ロマン主義
生涯
1772年、ハノーファーの牧師の家に生まれた。兄アウグスト・ヴィルヘルムも批評家・翻訳家で、シェイクスピアのドイツ語訳を残している。
商人になるための修業に失敗し、ゲッティンゲンとライプツィヒの大学で法律を学んだ。だが古代ギリシャの文学と哲学に傾倒し、そちらへ移る。ライプツィヒでノヴァーリスと知り合った。
1797年からベルリンに住み、シュライアーマハー、ティークらと交わる。1798年、兄とともに雑誌『アテネーウム』を創刊した。この雑誌はわずか三年、六号で終わったが、初期ロマン主義の理論はここで形成された。
1799年、小説『ルツィンデ』を発表する。性愛を肯定的に扱い、既存の道徳を否定する内容が激しい非難を浴びた。モデルとされたのが、後に妻となるドロテア・ファイトである。哲学者メンデルスゾーンの娘で、当時は人妻だった。二人は離婚と改宗を経て1804年に結婚している。
1802年からパリに滞在し、サンスクリットを学んだ。1808年の『インド人の言語と知恵について』は、インド・ヨーロッパ語族の比較研究の出発点の一つになる。
同じ1808年、妻とともにカトリックへ改宗した。以後はウィーンでオーストリア政府に仕え、メッテルニヒ体制のもとで保守的な立場をとる。若い頃の急進性は失われた。1829年、ドレスデンで56歳で死去した。
作風
シュレーゲルの批評は、断章という形で書かれる。
体系的な論文を書かず、短い覚書を番号を振って並べる。一つの断章が完結せず、別の断章と矛盾することもある。この形式そのものが主張になっている。真理は体系として提示できず、断片としてしか示せない、という立場である。
その中心にあるのが「ロマン的詩」の構想である。『アテネーウム断章』第116番で示された。ロマン的詩は進歩的で普遍的な詩であり、詩と散文、天才と批評、芸術と生を再び一つにするものだとされる。そしてそれは常に生成の途上にあり、完成することがない。この未完性こそが本質だという。
「ロマン主義(Romantik)」という語に文学上の意味を与えたのは、この一群の仕事である。もともとは中世の物語(ロマンス)に由来する語だった。
もう一つの鍵が「イロニー」である。作者は自分の作品に没入すると同時に、それを外から眺めて相対化する。作中で作品自身に言及し、虚構であることを露出させる。この二重の態度を、シュレーゲルは芸術に不可欠なものとした。
批評そのものを創作と同格に置いた点も重要である。批評は作品に従属するのではなく、作品を完成させる営みだと考えた。これは当時の常識を覆すものだった。
古代ギリシャ研究も一貫した仕事である。ギリシャ文学を規範として模倣するのではなく、その完結性と、近代文学の未完性との違いを論じた。
作品
『ギリシア詩研究』(1797年)
初期の主著である。古代の詩の客観性と、近代の詩の主観性を対比した。
『アテネーウム断章』(1798年)
最も参照される。ここに「ロマン的詩」の規定がある。
『ルツィンデ』(1799年)
小説である。筋を持たず、手紙、独白、寓話、日記が混在する。理論を実作で示そうとした試みとして扱われるが、作品としての評価は当時から低い。
『インド人の言語と知恵について』(1808年)
サンスクリットとヨーロッパ諸語の関係を論じた。比較言語学の先駆にあたる。
『古代および近代文学の歴史』(1815年)
ウィーンでの講義に基づく文学史である。
日本語では断章の抄訳が読める。
文学史における立ち位置と影響
シュレーゲルは、ドイツ初期ロマン主義の理論を作った人物である。ノヴァーリス、ティーク、シュライアーマハーらとともにイェーナに集まった一群の中心にいた。
「ロマン主義」という概念そのものが、ここから出ている。以後ヨーロッパ各国に広がるこの運動の名と内容は、『アテネーウム』の数年間に規定された。
批評の地位を変えた点も大きい。作品に寄生するものではなく、独立した創造としての批評という考え方は、以後の文芸批評の前提になった。ベンヤミンは学位論文『ドイツ・ロマン主義における芸術批評の概念』でシュレーゲルを扱い、自らの批評論の基礎に据えている。
イロニーの概念は、20世紀の文学理論で繰り返し取り上げられた。作品が自分自身に言及し、虚構性を露出させるという方法は、ポストモダンの小説の議論でも参照される。
断章という形式も受け継がれた。ニーチェ、ベンヤミン、アドルノに至る系譜の起点にあたる。
一方、実作者としての評価は低い。『ルツィンデ』は理論の説明としてしか読まれていない。理論家と作家のどちらとして扱うかで、この人物の位置づけは変わる。
晩年の保守化も論じられる。急進的な理論から出発してメッテルニヒ体制に仕えたという経歴は、ロマン主義そのものが持つ両義性の例として引かれてきた。