バーナード・ショー
- 原綴
- George Bernard Shaw
- 生没
- 1856–1950
- 出身
- ダブリン
- 国
- イギリス
- 時代
- 20世紀以降
生涯
1856年、ダブリンのプロテスタントの家に生まれた。父は穀物商で酒に溺れ、家は困窮していた。母は歌手として身を立て、1873年に音楽教師と駆け落ち同然にロンドンへ移る。
ショーは十五歳で学校をやめ、不動産事務所で働いた。1876年、二十歳でロンドンの母のもとへ移る。以後九年、五本の小説を書いたがいずれも出版を断られ、母の稼ぎに頼って暮らした。
1884年、フェビアン協会の創設に加わった。革命ではなく漸進的な改革によって社会主義を実現するという立場の団体で、ショーは生涯その中心にいる。演説と論文を大量に書き、地方自治の実務にも携わった。
1880年代後半から音楽批評と演劇批評で生計を立てた。「コルノ・ディ・バセット」という筆名で書いた音楽評は、今日も読まれている。1891年、『イプセン主義神髄』を発表した。
劇を書き始めたのは30代後半である。初期の作品は上演が難しく、まず読む戯曲として刊行した。長い序文と、詳細なト書きを付けたのはこのためである。
1898年に結婚した。相手は裕福なアイルランド人女性で、生涯にわたる伴侶になったが、性的な関係はなかったとされる。
1925年、ノーベル文学賞を受賞した。賞金の受け取りを拒み、スウェーデン文学の英訳を支援する基金に充てている。
政治的な発言は生涯続いた。晩年にはソ連とムッソリーニを擁護する発言をして批判を浴びている。1950年、庭の木から落ちた怪我がもとで、94歳で死去した。
作風
ショーの劇は、議論そのものでできている。
事件は少ない。人物が向かい合い、立場をぶつけ、論理で相手を追い詰める。観客は筋を追うより、論争の展開を追うことになる。この形式を「議論劇(discussion play)」と呼ぶ。
対象は制度である。売春、軍隊、医療、貧困、結婚、階級。ショーはそれを道徳の問題としてではなく、経済の問題として扱った。『ウォレン夫人の職業』では、売春宿を経営して財産を築いた女性が、娘に向かって、女が飢えずに生きる道が他になかったのだと説明する。悪いのは個人ではなく、そうさせた社会だという構図である。この作品は上演を禁じられ、公開上演までに三十年以上かかった。
方法として一貫しているのが、観客の期待を裏返すことである。英雄的な行為が滑稽に見えるように書き、卑劣とされる人物に最も筋の通った台詞を与える。『武器と人』では、戦場で弾丸の代わりにチョコレートを持ち歩く兵士が、勇壮な軍人より正しいことを言う。
笑わせながら考えさせるという作りになっている。台詞は速く、逆説と警句が多い。深刻な主題を扱いながら、劇としては喜劇の形をとる。
戯曲には長い序文が付く。作品の背景となる社会問題を、論文として何十頁も論じたものである。本文より序文のほうが長いこともある。ト書きも詳細で、人物の来歴や心理まで書き込まれた。舞台で上演されない部分まで書くという点で、読む戯曲として設計されている。
作品
『ウォレン夫人の職業』(執筆1893年、公開上演1925年)
売春と経済を扱う。
『武器と人』(1894年)
戦争の英雄像を裏返す喜劇である。
『キャンディダ』(1898年)
牧師の妻をめぐる三角関係を通じて、結婚と依存を論じる。
『シーザーとクレオパトラ』(1901年)
シェイクスピアの英雄像への対案として書かれた。
『人と超人』(1903年)
代表作の一つである。第三幕の「地獄の場」は独立して上演されることもある長大な議論で、ニーチェの超人の概念と生命力の思想が論じられる。
『バーバラ少佐』(1905年)
救世軍の士官である娘と、武器製造で財を成した父の対決を描く。
『医師のジレンマ』(1906年)
医療制度を扱う。
『ピグマリオン』(1913年)
最もよく知られている。音声学者ヒギンズが、下町の花売り娘イライザに上流階級の発音を教え込み、社交界で貴婦人として通用させるという賭けをする。実験は成功するが、教育を受けたイライザはもはや元の生活に戻れず、かといってヒギンズの助手として扱われることも拒む。ミュージカル『マイ・フェア・レディ』の原作である。ただし原作は二人が結ばれる結末をとらず、ショーはその読み方に反対して後書きを書き足した。
『聖女ジョウン』(1923年)
ジャンヌ・ダルクの裁判を扱う。異端審問官の側にも筋の通った論理を与えた点が評価されている。
日本語では『ピグマリオン』と『聖女ジョウン』が読める。
文学史における立ち位置と影響
ショーは、イギリス演劇をシェイクスピア以来の停滞から動かした人物とされる。19世紀のイギリスの舞台はメロドラマと笑劇に占められていた。そこへ社会の問題を持ち込んだ。
イプセンの受容がその契機である。『イプセン主義神髄』(1891年)でイプセンを擁護し、演劇は理想を掲げるのではなく、その理想が現実に何をもたらすかを見せるべきだと論じた。イプセンの方法をイギリス語圏へ移した中心人物にあたる。
ただし方向は違う。イプセンが解決を示さずに幕を下ろすのに対し、ショーは登場人物に立場を語らせ、明快な議論として提示する。この差はしばしば対比される。
ノーベル文学賞(1925年)とアカデミー脚色賞(1938年、『ピグマリオン』)の両方を受けた唯一の人物である。
音楽批評と演劇批評の書き手としても評価が高い。ワーグナー論『完全なワーグナー党員』は、『ニーベルングの指環』を資本主義の寓話として読んだもので、今日も参照される。
フェビアン協会を通じた社会運動への関与も、その活動の一部である。イギリス労働党の成立に間接的に関わり、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスの創設にも加わった。
一方、晩年の政治的発言は評価を損なった。スターリン体制下のソ連を擁護し、優生学に近い主張も残している。
日本では明治末から紹介され、大正期の演劇運動に影響した。『ピグマリオン』は『マイ・フェア・レディ』を通じて広く知られている。