フョードル・ドストエフスキー

両手を組み、うつむき加減に座るフョードル・ドストエフスキーの油彩肖像画。
ワシーリー・ペローフ筆(1872年)
原綴
Фёдор Достоевский
生没
1821–1881
出身
モスクワ
ロシア
時代
黄金時代

生涯

1821年、モスクワの貧民病院の医師の家に生まれた。父は厳格で、後に領地の農民に殺されたとも伝えられる。工兵学校を出て軍務に就くが、まもなく退いて文筆に入った。1846年の『貧しき人々』が批評家ベリンスキーに絶賛され、作家として出発する。

1849年、社会主義の思想を語り合うサークルに参加していたとして逮捕された。革命を企てる組織ではなく、禁書を読んで議論する集まりにすぎない。死刑を宣告され、銃殺の直前に減刑の勅令が読み上げられる。この処刑の演出は、皇帝が仕組んだものだった。ドストエフスキーはシベリアへ送られ、4年の徒刑と兵役を経て、10年後にようやくペテルブルクへ戻る。この経験が以後の作品を決定づけた。

帰還後は雑誌を発行しながら書いたが、兄の死で多額の負債を負い、賭博に溺れて生活は破綻した。借金取りに追われながら口述で長篇を書き上げている。持病の癲癇の発作も生涯続いた。

晩年になって評価と生活が安定し、1880年のカラマーゾフの兄弟で頂点に達する。1881年、59歳で死去した。葬儀には数万人が集まったと伝えられる。

作風

ドストエフスキーの小説では、登場人物がそれぞれ独自の思想を持ち、互いに反駁し合う。作者の見解がどれなのかを特定できない構造になっている。ロシアの批評家バフチンは、これを複数の声が対等に響き合う「ポリフォニー(多声)」と呼んだ。

主題は一貫している。神が存在しないなら、人は何をしてもよいのか。罪と罰では、選ばれた者は法を超えてよいと考えた学生が老婆を殺し、その後の意識の崩壊が追跡される。理論としては筋が通っていたはずのものが、実行した本人の内部で壊れていく。

カラマーゾフの兄弟の「大審問官」の章は、その問いが最も鋭く出た箇所である。再臨したキリストを、異端審問官が牢に閉じ込めて詰問する。人間は自由に耐えられない、あなたは自由を与えたが、人々が求めていたのはパンと安心だったのだ、と。この章だけを取り出して論じられることも多い。

書き方は、締切と借金に追われた条件のもとで作られている。連載の期日に合わせて口述で書き継ぎ、後から整える余裕がなかった。文章は整っておらず、同じ話が繰り返され、人物が延々と喋り続ける。その粗さが、思考の生々しさとして働いている面がある。

作品

地下室の手記(1864年)

社会から退いた男の独白である。理性や利益に従うことを拒み、あえて自分に不利な選択をする人間を書いた。実存主義の先駆とされる。短いが屈折が激しく、初読では戸惑いやすい。

罪と罰(1866年)

代表作である。貧しい学生ラスコーリニコフが、選ばれた者は法を超えてよいという理論のもとに高利貸しの老婆を殺し、良心の呵責と追及のなかで崩れていく。筋が明快で犯罪小説としても読めるため、入口に向く。

『白痴』(1868〜69年)

「完全に美しい人間」を書く試みとして構想された。癲癇を病む純真なムイシキン公爵が、その善良さゆえに周囲を破滅させていく。

『悪霊』(1871〜72年)

革命を目指す秘密結社の内部を描く。実際に起きた学生殺害事件が素材になっている。

カラマーゾフの兄弟(1880年)

最後の長篇である。父殺しをめぐって三人の兄弟が対立し、信仰と無神論、自由と幸福が論じられる。長大なので、他を読んでからのほうがよい。

登場人物の名前が本名・父称・愛称で入り乱れるため、人物一覧のある版を選ぶと読みやすい。

文学史における立ち位置と影響

ドストエフスキーはトルストイと並ぶロシア黄金時代の頂点にある。二人はしばしば対比される。トルストイが外から見える世界を書いたのに対し、ドストエフスキーは意識の内側と思想の対立を書いた。

近代小説が扱える主題の範囲を広げた点が大きい。犯罪、狂気、信仰、自殺、屈辱、幼児虐待。これらを、道徳的な結論を与えないまま提示した。読者は答えを渡されず、対立する主張のあいだに置かれる。

20世紀への影響はとくに大きい。実存主義は地下室の手記を先駆として繰り返し参照し、カミュサルトルも出発点の一つに挙げている。フロイトカラマーゾフの兄弟を論じ、ニーチェはこの作家から心理学を学んだと書いた。

日本では明治期から読まれ、近代日本文学の形成に強い影響を与えた。小林秀雄は生涯にわたって論じ続け、ドストエフスキイの生活を書いている。

作品

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