アンドレ・ジッド

原綴
André Gide
生没
1869–1951
出身
パリ
フランス
時代
20世紀以降

生涯

1869年、パリの裕福なプロテスタントの家に生まれた。父は法学者で、ジッドが11歳のときに死去する。以後は厳格な母のもとで、禁欲的なプロテスタントの規律のなかで育った。この抑圧が、後年の全作品の背景になる。病弱で神経質な少年で、学校に馴染めず、家庭で教育を受けた期間が長い。

20代前半、北アフリカを旅した。チュニジアで結核にかかり、療養するなかで感覚が解放される経験をする。この旅で自分が同性愛者であることを自覚した。厳格な信仰と、抑えられない欲望の対立が、ここで生涯の主題として定まる。帰国後、従姉マドレーヌと結婚した。精神的な結びつきを求めた結婚で、性的な関係はなかったとされる。この関係も作品に繰り返し現れる。

1908年、仲間と文芸誌『新フランス評論(NRF)』の創立に関わった。これが後の大出版社ガリマールの母体になる。20世紀前半のフランス文学の中心的な媒体である。

社会的な発言も行った。1925年のコンゴ旅行では、フランスの植民地支配の実態を記録して告発している。1936年にはソ連を訪問し、当初は共産主義に期待したが、帰国後に『ソヴィエト旅行記』でスターリン体制を批判した。これにより当時の左翼知識人から激しく攻撃されている。

1947年にノーベル文学賞を受け、1951年、パリで81歳で死去した。死の翌年、全著作がカトリック教会の禁書目録に載せられている。

作風

ジッドは、欲望と道徳の対立を両極から書いた。一方の極が背徳者である。病から回復した学者が、それまでの道徳や学問を捨て、身体の欲望に従って生きようとする。解放が、同時に妻を犠牲にしていく過程として書かれる。もう一方の極が狭き門である。深く愛し合う二人の女性のうち、姉が禁欲を極め、地上の幸福を自ら拒んで死んでいく。信仰による自己犠牲が、救いではなく破滅として書かれる。

この二作は対になっている。放縦と禁欲、どちらの極も人を損なう。ジッドはどちらかを正解として示さない。自分の中の対立を、二つの作品に分けて書いたことになる。

同性愛を正面から扱った点も特筆される。『コリドン』では対話形式でこれを擁護し、自伝一粒の麦もし死なずばでも自分の性を隠さず書いた。当時としては例外的に踏み込んだ表明であり、激しい非難を浴びている。

「動機なき行為(アクト・グラテュイ)」という主題も持ち込んだ。法王庁の抜け穴で、主人公が理由もなく見知らぬ男を列車から突き落とす。利害も感情もない行為が可能か、という問いである。

一貫して求めたのは、自己を偽らないことだった。誠実さ(シンセリテ)が中心の価値であり、社会の規範より自分の本心に従うことを、生涯にわたって問い続けた。

作品

背徳者(1902年)

道徳からの離脱を描く。北アフリカでの回復体験が下敷きにある。

狭き門(1909年)

禁欲による破滅を描く。日本で最もよく読まれてきたジッドの作品である。

法王庁の抜け穴(1914年)

詐欺と「動機なき行為」を扱う。作者自身が「ソチ(茶番劇)」と呼んだ喜劇的な作品である。

贋金つくり(1926年)

代表作とされる。小説を書いている作家が登場する小説である。作中で小説論が語られ、複数の筋が絡み合う。「小説についての小説」という構造そのものが実験になっており、ジッドはこれを唯一の「ロマン(本格小説)」と位置づけた。

一粒の麦もし死なずば(1926年)

自伝で、少年期と自分の性について書いている。

文学史における立ち位置と影響

ジッドは20世紀前半のフランス文学における中心人物の一人である。作品そのものに加えて、文芸誌NRFとガリマール社を通じて、何を出版するかに影響力を持った。

その影響力が、文学史上最も有名な失敗を生んだ。プルーストスワン家のほうへの原稿を持ち込んだとき、ジッドは関わった判断でこれを退けた。プルーストが社交界の素人だという先入観があったとされる。後に読み直して誤りを悟り、「わが生涯最大の過ち」と認める手紙をプルーストに送っている。

モダニズムの文脈に置かれるが、技法の実験より倫理的な問いへの関心が強い。意識の流れを追ったプルーストジョイスとは性格が異なる。「どう生きるか」を問う点では、後のサルトルカミュに近い。

「誠実さ」を掲げて社会の規範と対立した姿勢は、20世紀の作家が個人の内面を基準にして生きる、その一つの型を示した。同性愛の公然の表明、植民地支配の告発、共産主義への幻滅と批判。それぞれの時点で、属する陣営から攻撃を受けている。

日本では大正から昭和にかけて広く読まれ、狭き門は旧制高校生の必読書の一つだった。

作品

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