詩の原理

作者
萩原朔太郎
成立
1928
日本
時代
近代

概要

詩とは何かを、体系立てて論じた、萩原朔太郎の理論的な主著である。

朔太郎月に吠える青猫で口語自由詩を完成させた詩人である。この『詩の原理』は、その朔太郎が、みずからの詩の実践を、理論として体系化しようとした評論にあたる。

朔太郎は、詩を「内容」と「形式」の二つの側面から論じる。詩の内容とは何か、詩の形式とは何か。そして散文と韻文はどう違うのか。これらの根本的な問いに、朔太郎は正面から答えようとする。

朔太郎の議論の核心は、主観と客観の対比にある。朔太郎は、芸術を「主観的なもの」と「客観的なもの」に大きく分ける。音楽や詩は主観に属し、絵画や彫刻は客観に属する。 そして詩は、言葉によって主観的な情緒を表現する芸術である、と位置づける。

朔太郎はまた、「浪漫主義」と「写実主義」という対立軸でも、文学を論じる。理想を求める心と、現実を写す目。その二つのあいだで、詩や文学がどう成り立つかを、朔太郎は考察していく。

詩人が、自分の創作の根拠を、みずから理論として語った書物。実作者ならではの実感に裏打ちされた、独自の詩論にあたる。

文学史における評価と影響

萩原朔太郎の理論的な主著であり、近代日本の詩論のなかで重要な位置を占める作品にあたる。

この書の意義は、口語自由詩を完成させた当の詩人が、その理論的な根拠を体系的に語った点にある。朔太郎は、月に吠える以来の自分の詩の実践を、「詩とは何か」という原理にさかのぼって、基礎づけようとした。実作と理論の両方を、一人の詩人が担った稀有な例である。

主題は、詩の本質の探究である。朔太郎は、内容と形式、主観と客観、浪漫主義と写実主義といった対立軸を用いて、詩を他の芸術や散文から区別しようとする。その議論は、必ずしも厳密な哲学ではないが、詩人ならではの鋭い直観に貫かれている。

朔太郎の詩観の核心が、ここに明示される。詩とは、言葉によって主観的な情緒をうたう芸術である——この考えは、朔太郎自身の詩の実践と、深く結びついている。青猫のけだるい憂鬱も、氷島の激しい絶望も、この主観的情緒の表現という詩観に支えられている。

体系性においては不備を指摘されることもある。それでも、日本を代表する詩人が、自らの芸術の原理を正面から論じた書物として、繰り返し参照されてきた。

内容

『詩の原理』は萩原朔太郎が著した、詩の理論書である。「詩とは何か」という根本的な問いに、体系的に答えようとした評論にあたる。

朔太郎は、詩を大きく「内容論」と「形式論」の二つに分けて論じる。

まず朔太郎が立てるのが、主観と客観という対立軸である。朔太郎によれば、あらゆる芸術は、「主観的なもの」と「客観的なもの」に大別できる。音楽は、最も主観的な芸術である。音は、外の世界の何かを写すのではなく、心の情緒そのものを直接に表現する。一方絵画や彫刻は、客観的な芸術である。 それらは、目に見える外界の姿を写しとる。

では、詩はどちらに属するか。朔太郎は言う。詩は、言葉を用いながらも、本質的には音楽に近い、主観的な芸術である。詩は、外界の描写ではなく、言葉の響きとイメージによって、心の情緒を表現する。この「主観的情緒の表現」こそが、詩の本質であるというのが、朔太郎の主張の核心である。

続いて朔太郎は、浪漫主義(ロマンティシズム)と写実主義(リアリズム)という、もう一つの対立軸を導入する。理想を求め、心の内へ向かう浪漫主義。現実を直視し、外の世界を写す写実主義。朔太郎は、この二つの傾向が、詩や文学の歴史のなかで、どう現れ、どう対立してきたかを考察する。

さらに朔太郎は、散文と韻文の違いにも踏み込む。同じ言葉を用いながら、散文と詩は、どこが違うのか。朔太郎は、その違いを、言葉の使い方、リズム、そして表現しようとするものの性質に求めていく。

これらの議論を通じて、朔太郎が一貫して主張するのは、詩が、主観的な情緒をうたう、音楽的な芸術だということである。この詩観は、朔太郎自身が月に吠える青猫で実践してきた、口語自由詩の在り方と、深く結びついている。

一人の詩人が、みずからの創作の根拠を、理論として語り尽くそうとした書物。実作者の実感に裏打ちされたこの詩論は、朔太郎の思想を知るうえで、欠かせない一冊となっている。

作者

登場する文学史