クインティリアヌス
- 原綴
- Marcus Fabius Quintilianus
- 生没
- 35頃–100頃
- 出身
- カラグリス(ヒスパニア・現スペイン北部ラ・リオハ州カラオラ)
- 国
- ローマ
- 時代
- 銀の時代
生涯
35年頃、ヒスパニア(現在のスペイン)のカラグリスに生まれた。ローマへ出てを学んでいる。
学業を終えると、今度は弁論術を教える側にまわった。当時のローマで弁論術は、数ある教科の一つではなく教育の柱である。裁判で自分を弁護するにも、元老院で意見を通すにも、人前で説得力をもって話す力が要った。そのため裕福な家では、子を弁論術の教師のもとへ通わせる。クインティリアヌスはその教師として身を立てたことになる。
教師として評判を得て、国家から俸給を受ける最初の弁論術教師の一人になったと伝えられる。皇帝ウェスパシアヌスによる措置で、それまで私的な営業だった教育に公費が付いた例にあたる。二十年にわたって教壇に立ち、小プリニウスも弟子の一人だったとされる。
私生活では相次いで家族を失った。若い妻が死に、二人の幼い息子も続けて死んでいる。『弁論家の教育』の第6巻の序文には、この悲しみが直接書かれている。教育の技術書のなかに、突然、子を失った父の言葉が現れる。
引退後、生涯の集大成として『弁論家の教育』を書いた。100年頃に死去したと考えられている。
作風
『弁論家の教育』は、一人前の弁論家を育てるまでの全過程を扱う。しかも赤ん坊のところから始まる。乳母の言葉づかいが子どもに移るから乳母を選べ、というところから説き起こし、初等教育、専門教育、実際に法廷に立つところまでを順に論じる。何をいつ教えるかが、段階ごとに具体的に書かれている。
教育に対する考え方が穏やかである。体罰にはっきり反対した。叩いて覚えさせても恐怖しか残らず、しかも一度そうすると効かなくなればもっと強く叩くことになる、という理屈である。かわりに、子どもの興味を引き出し、できたところを褒め、性質に合わせて教え方を変えることを説いた。子どもによって向き不向きがあり、それを見極めるのが教師の仕事だとしている。
弁論術そのものも詳しく論じる。何を言うかを見つける段階、順序を組む段階、言葉に整える段階、覚える段階、実際に語る段階。当時の理論では弁論をこの五つに分けており、それぞれについて技術が説明される。
過去の作家への批評も含まれる。第10巻では、ギリシャとローマの主要な作家を順に挙げ、それぞれの長所と、書き手として学ぶべき点を短く評している。古代の文学批評として、まとまった形で残る数少ない例にあたる。
その根本にある考えは、技術の話を超えている。理想の弁論家を「語ることに巧みな善良な人間(vir bonus dicendi peritus)」と定義した。話がうまいだけでは足りない、まず善良でなければならない、という主張である。悪人が弁論を身につければ害が大きくなるだけだから、というのがその理由になる。教育の目的は技術の習得ではなく人間を作ることだ、という立場がここに出ている。
文章は明晰で整っている。キケロを手本と定め、その格調をそのまま理想とした。
作品
『弁論家の教育(Institutio Oratoria)』
代表作である。全12巻。教育の全課程と弁論の全技術を扱う。
第10巻に、ギリシャとローマの作家への批評が入る。第6巻の序文に、家族を失った悲しみが記されている。
日本語では抄訳と部分訳がある。
文学史における立ち位置と影響
古代の教育論として最もまとまった著作であり、その分野の代表とされる。
影響が大きくなったのはルネサンス以降である。1416年、の学者ポッジョ・ブラッチョリーニが、スイスの修道院の書庫で完全な写本を発見した。それまでは断片しか知られていなかった。この再発見が、当時ちょうど教育制度を作り直そうとしていたヨーロッパに直接影響する。
以後、この本は学校教育の手本になった。体罰に反対し、子どもの資質を尊重し、興味を引き出すという方針は、エラスムスをはじめとする教育思想家に受け継がれ、近代の教育観の源の一つになっている。
修辞学の体系としても規範だった。弁論術をこれほど包括的に扱った著作は他になく、ルネサンスから近代にかけて、この分野の教育はこの本を基礎にした。
「善良な人間にして語ることに巧みな者」という定義は、教育の目的をめぐる議論で繰り返し引かれてきた。技術だけを教えることの危うさを指摘する際の古典的な典拠にあたる。
第10巻の作家評は、古代においてどの作家が高く評価されていたかを知る資料になっている。読むべき古典の一覧が、この時代にどう定まっていたかがうかがえる。
日本での受容は、修辞学と教育史の研究のなかで進んだ。