野火

作者
大岡昇平
成立
1951
日本
時代
現代

概要

敗戦間際のフィリピンで、一人の兵士が飢えてさまよう話である。

主人公田村は肺を病んでいる。隊は、病人を養う余裕がないとして、田村を野戦病院へ追いやる。だが病院も、食料のない者は受け入れない。田村は、隊にも病院にも居場所を失い、一人で山野をさまよう。

食べるものがない。田村は芋を掘り、草をかじり、そして飢えていく。周囲では、日本兵が次々に飢え死にし、あるいは殺し合っている。

やがて田村は、人肉食に直面する。追い詰められた兵士たちが、死者の肉を、あるいは殺した者の肉を食べている。「猿の肉」と称して人肉を渡す兵士が現れる。田村自身も、その一歩手前まで行く。

田村がそれを踏みとどまるのは、理性でも道徳でもない。銃を人に向けようとしたとき、自分の手が勝手に止まる。説明のつかない何かが、田村を人肉食から遠ざける。

物語は、戦後、精神を病んで病院にいる田村の手記として書かれている。あの極限で何が起きたのか、自分は本当に人を食べなかったのか。田村は、壊れた記憶をたどりながら書いている。

題の「野火」は、田村がさまよう野に、遠く立ちのぼる火である。誰が焚いているのか分からない。 人の営みの徴のようでもあり、幻のようでもある。

文学史における評価と影響

日本の戦争文学の最高峰の一つとされる。大岡自身、フィリピンで捕虜になった体験を持つ。

主題は、極限における人間である。飢餓は、人間から社会性を剥ぎ取る。地位も道徳も消え、残るのは食べようとする体だけになる。その果てにある人肉食を、大岡は目をそらさずに書いた。同時に、それを踏みとどまる何かも書いた。

宗教的な問いが、この作品を深くしている。田村は、なぜ自分が人を食べなかったのかを問い続ける。それは神の力だったのか、それとも単なる偶然か。田村はキリスト教に触れた過去を持ち、極限の中で神の存在をめぐって思考する。答えは出ない。

記憶の不確かさも、この作品の核心にあたる。田村は精神を病んでおり、自分の記憶を信じられない。本当は人を食べたのに、それを忘れているのではないか。 手記そのものが、その疑いの上に書かれている。

大岡の文体は、知的で分析的である。極限の体験を、感傷ではなく、冷静な観察と論理で書く。フランス文学(スタンダール)を研究した大岡の教養が、この距離感を支えている。

塚本晋也が2014年に映画化し、戦争の記憶が薄れる時代に、この作品を改めて問い直した。市川崑による1959年の映画も知られる。

あらすじ

フィリピン、レイテ島。1945年、日本軍は壊滅寸前にある。

一等兵の田村は、肺結核を患っている。分隊長は、食料を消費するだけの病人を疎ましく思い、田村を野戦病院へ行かせる。 出ていけ、病院で死ね、と言う。

だが病院も、田村を受け入れない。三日分の食料を持たない病人は、門前払いにされる。 田村は、隊にも病院にも属せない、宙ぶらりんの身になる。

田村は、一人で山野をさまよい始める。

食料はない。田村は、畑の芋を掘り、塩を舐め、草を食べる。飢えが、思考を支配していく。 周囲には、同じように敗走する日本兵の死体が転がっている。

田村は、ある村の教会に入る。そこで、十字架を見て、かすかな慰めを感じる。だが、そこへ来たフィリピン人の女を、田村は思わず撃ち殺してしまう。なぜ撃ったのか、自分でも分からない。 田村は、自分の中の何かに怯える。

さまよううちに、田村は他の日本兵たちと出会う。永松と安田という二人の兵は、生き延びるための術を持っている。永松が、田村に「猿の肉」を分けてくれる。だが田村は、それが人肉であることに気づく。周囲では、死んだ兵、あるいは殺した兵の肉を食べることが、密かに行われている。

田村は、飢えの極限で、自分も人肉に手を出す寸前まで行く。だが、いざ人に銃を向けようとすると、腕が上がらない。自分の手が、自分の意志に反して止まる。何かが、田村を人肉食から引き離す。

やがて田村は、永松が安田を殺して食べようとしているのを目撃する。田村は、永松を撃つ。 人を食う者を、田村は撃った。だが、その自分もまた、正気を保っていない。

戦後。田村は日本に生還したが、精神を病み、病院に入っている。この手記は、その病室で書かれたものである。

田村は、あの極限で何が起きたのかを、繰り返し思い返す。自分は本当に、人を食べなかったのか。記憶は途切れ、確信は持てない。なぜ自分だけが、人肉食を踏みとどまったのか。 それは神の意志だったのか、偶然か。

答えは出ないまま、田村は、遠い野に立ちのぼった火の記憶を書き記す。誰が焚いたとも知れぬ野火が、あの飢餓の野の、唯一の人の徴だった。

作者

登場する文学史