大岡昇平
- 原綴
- Ōoka Shōhei
- 生没
- 1909–1988
- 出身
- 東京市牛込区(現・東京都新宿区)
- 国
- 日本
- 時代
- 現代
生涯
1909年、東京に生まれた。京都帝国大学でフランス文学を学び、在学中からスタンダールに傾倒する。卒業後は翻訳や会社勤めをしながら、スタンダールの研究と翻訳を続けた。
1944年、35歳で召集され、フィリピンのミンドロ島へ送られる。まともな訓練を受けていない補充兵だった。部隊は壊滅し、大岡はマラリアで動けなくなって、山中で米軍の捕虜になる。レイテ島の収容所で敗戦を迎え、1945年末に復員した。
戦後、この体験を書き始める。1948年の俘虜記で作家として出発し、以後、戦争を主題にした作品を書き続けた。同時にスタンダールの翻訳と研究も生涯続けている。晩年は評伝の仕事も多く、中原中也や富永太郎の伝記的研究を残した。1988年、79歳で死去した。
作風
大岡は、自分の戦争体験を証言ではなく分析の対象として書いた。
俘虜記の冒頭の一篇「捉まるまで」で、山中で一人の若い米兵と遭遇したときのことを書いている。撃てる位置にいた。撃たなかった。そして戦後の大岡は、なぜ撃たなかったのかを何十ページも考える。敵意がなかったからか。生き延びるための計算か。相手が若かったからか。あるいは単に反射的に撃てなかっただけか。答えは出ない。出ないまま、可能性を一つずつ検討していく。
この方法が、日本の戦争文学のなかでは際立っている。悲惨を訴えるのでも、告発するのでもなく、極限状況での自分の行動を、他人のもののように分析する。スタンダールの研究者だったことが、この文体の背景にある。感情を分析の対象として扱うフランス小説の方法を、自分の戦争体験に適用したことになる。
事実の扱いも徹底している。レイテ戦記では、自分の体験ではなく、レイテ島の戦闘そのものを、日米双方の戦史・戦闘詳報・生存者の証言から再構成した。10年以上を費やしている。小説ではなく、戦史でもない。死者一人ひとりの名と、部隊がどう消えていったかを、可能な限り記述しようとした試みである。
作品
俘虜記(1948〜51年)
捕虜体験の記録と分析である。
野火(1952年)
代表作である。フィリピンの敗走のなかで、病兵が部隊から追い出され、一人で彷徨する話で、食べるものがないまま人肉食に直面する。この主題を扇情的にせず、宗教的な問いとして扱った。主人公は自分が何をしたのか最後まで確信を持てず、戦後の彼は精神を病んでいるため、語りの信頼性そのものが揺れている。市川崑と塚本晋也によって二度映画化された。
武蔵野夫人(1950年)
戦争ではなく恋愛と土地相続を扱った長篇である。スタンダール的な心理分析の手法を、日本の郊外を舞台に用いた。
レイテ戦記(1967〜69年)を最大の仕事とする評価がある。
事件(1977年)
法廷を舞台にした長篇である。
文学史における立ち位置と影響
大岡は戦後の「第一次戦後派」に位置づけられる。野間宏、武田泰淳、椎名麟三らとともに、戦争体験を出発点にして書き始めた世代である。
日本の戦争文学は、被害の記憶として書かれることが多い。大岡の位置が特殊なのは、加害と被害の両方を含む状況を、判断を保留したまま記述しようとした点にある。自分を免責もせず告発もせず、何が起きたかだけを確定しようとする。
プリーモ・レーヴィと並べて論じられることがある。極限状況の証言をどう書くかという問題を共有しているためである。どちらも、体験を訴えるのではなく、記述の正確さで支えようとした。