ゲアハルト・ハウプトマン
- 原綴
- Gerhart Hauptmann
- 生没
- 1862–1946
- 出身
- オーバーザルツブルン(シレジア、現・ポーランド)
- 国
- ドイツ
- 時代
- 19世紀
生涯
1862年、シレジアの温泉町の宿屋の家に生まれた。祖父は織物職人で、1844年のシレジア織工一揆に関わったと伝えられる。この家系の記憶が、後の代表作の背景にある。
学業は振るわず、農業を試み、彫刻を学び、大学を中退した。1885年に結婚し、裕福な妻の資産で生活しながらベルリン近郊に住む。
ベルリンで自然主義の文学サークルに加わった。1889年、最初の戯曲『日の出前』が上演され、大きな騒動になる。遺伝と環境によって人が破滅するという内容と、舞台上で酔漢が現れる演出が、観客の一部を激昂させた。この上演がドイツ自然主義演劇の出発点とされる。
1892年の『織工たち』は、皇帝ヴィルヘルム二世の意向により公開上演を禁じられた。会員制の劇場でのみ上演され、1894年に禁止が解かれる。皇帝は劇場の自分の桟敷席を解約したと伝えられる。
1912年、ノーベル文学賞を受賞した。ワイマール共和国期には国民的な作家として遇され、大統領候補に擬されたこともある。
ナチスが政権を取った後もドイツに留まった。亡命せず、体制と正面から対立もしなかった。この態度は、亡命した作家たちから厳しく批判されている。
1945年、ドレスデン爆撃を近郊で経験した。1946年、シレジアの自宅で83歳で死去した。この地はすでにポーランド領となっており、遺体はドイツへ移送された。
作風
ハウプトマンは、貧しい人々の生活をそのまま舞台に上げた。
自然主義の方法をとる。人物は遺伝と環境によって規定され、そこから逃れられない。作者は裁かず、解決も示さない。舞台上には日常の細部が置かれ、演劇的な様式化を避ける。
台詞に方言を使ったことが決定的だった。『織工たち』はシレジア方言で書かれている。標準ドイツ語に直した版も作られたが、方言版のほうが本来の姿である。教養ある人物だけが舞台で語るという前提が、ここで崩れた。
『織工たち』にはもう一つの特徴がある。主人公がいない。各幕で異なる人物が現れ、集団としての織工が主体になる。個人の運命ではなく、階層全体の状況が扱われる。これは当時の演劇の構成として異例だった。
自然主義から離れた作品も多い。『沈鐘』のような象徴主義的な童話劇、ギリシャ悲劇の翻案、歴史劇。ハウプトマンは同じ方法に留まらず、生涯にわたって形式を変え続けた。
小説も書いている。『キリストにおける愚者エマヌエル・クヴィント』は、現代のドイツに現れたキリストのような男を描いたものである。
作品
『日の出前』(1889年)
最初の戯曲で、アルコール依存の遺伝によって破滅する農家を扱う。
『織工たち』(1892年)
代表作である。1844年のシレジアの織工一揆を素材とする。機械化と買い叩きによって飢えた織工たちが、工場主の家を襲う。だが蜂起は鎮圧され、最後に死ぬのは、蜂起に加わらなかった信心深い老人である。窓から入った流れ弾に当たる。
『ビーバーの毛皮』(1893年)
喜劇で、洗濯女が盗みを働きながら、権威主義的な役人を出し抜く。
『沈鐘』(1896年)
童話劇で、鐘作りの職人と森の精を扱う。当時最も広く上演された。
『御者ヘンシェル』(1898年)と『ローゼ・ベルント』(1903年)は、後期の自然主義劇である。
『アトレウス一族』四部作(1940〜44年)は最晩年の作で、ギリシャ悲劇を素材にしている。
日本語では『織工たち』と『沈鐘』が読める。
文学史における立ち位置と影響
ハウプトマンは、ドイツ演劇に自然主義を確立した人物である。イプセンとゾラの影響を受けつつ、ドイツ語圏でその方法を舞台に定着させた。
『織工たち』は、集団を主人公にした劇の先例として繰り返し参照される。個人の英雄ではなく階層を扱うという構成は、後の政治的な演劇に受け継がれた。ブレヒトもこの作品を評価している。
方言を舞台の言語として使った点も大きい。以後、社会の下層を書く劇では、その階層の言葉を使うことが当然になった。
政治的な受容は変転した。上演禁止を受けた反体制の作家として出発し、ワイマール期には国民作家となり、ナチス期には留まったことで批判された。この経歴自体が、ドイツの作家と政治の関係を示す例として論じられる。
戦後、その評価は下がった。ナチス期の態度に加え、自然主義そのものが古い方法と見なされたためである。近年は再評価が進んでいる。