ゴットフリート・ベン
- 原綴
- Gottfried Benn
- 生没
- 1886–1956
- 出身
- マンスフェルト(プロイセン領)
- 国
- ドイツ
- 時代
- 20世紀前半
生涯
1886年、プロイセンの牧師の家に生まれた。神学と文献学を学んだ後、軍医養成の学校へ移り、1912年に医師資格を得た。
同じ1912年、詩集『屍体公示所』を発表する。解剖室の光景を扱った五篇で、激しい反発と注目を同時に集めた。
第一次大戦には軍医として従軍し、ブリュッセルで娼婦の検診を担当した。この時期に詩と散文を書いている。
戦後はベルリンで皮膚科と性病科の医院を開いた。詩人としての活動と、医師としての生活を並行させている。
1933年、ナチスが政権を取ると、これを支持する立場をとった。プロイセン芸術アカデミーで新体制に沿った改組に加わり、亡命した作家たちを公然と批判した。国外にいたトーマス・マンの子クラウス・マンからの手紙に対し、新しい国家を擁護する公開書簡で応じている。
だが体制の側からは受け入れられなかった。1934年頃から「退廃芸術」として攻撃を受ける。ナチスが、近代の前衛的な芸術を病んだものとして排斥した際の呼び方である。1938年には帝国文学院から除名されて執筆を禁じられる。ベンはこれに先立って軍医として軍に復帰しており、それを「貴族的な亡命形式」と呼んだ。
戦後も、ナチスを支持した経歴のために出版が禁じられた。1948年になってようやくスイスで詩集が出る。
1951年、ドイツ語圏で最も権威のある文学賞であるビュヒナー賞を受け、1950年代には西ドイツで最も影響力のある詩人として遇された。1956年、70歳で死去した。
作風
ベンの詩は、医師の眼から始まった。
『屍体公示所』では、解剖台の上の遺体が扱われる。溺死した少女の口から抜き取られる鼠の巣、腐敗した肉体、切開される腹腔。美化も同情もなく、臨床の視線で書かれる。当時の詩の語彙からすれば、扱う対象そのものが違反だった。
だが単なる衝撃の追求ではない。人間が肉と化学物質の集まりでしかないという認識が根底にある。魂も精神も、その物質から生じた一時的な現象にすぎない。この徹底した唯物論が、初期の詩を支えている。
中期以降は、その虚無から出発して別の方向へ進んだ。歴史、文明、南方の異国、原初への回帰といったイメージが現れる。人間が意識を持つ以前の状態への憧れが繰り返される。
後期には「絶対詩」という考えを提示した。詩は何も伝達せず、何にも奉仕しない。言葉の配置によって成立する自律的な構築物であり、それ自体が目的だという主張である。虚無を前提としたうえで、なお形式だけが残る、という立場になっている。
文体は硬質で、専門用語と外来語が多用される。医学用語、地質学、考古学の語彙が、抒情的な語と衝突するように配置される。
散文と講演も残した。『抒情詩の諸問題』(1951年)は、戦後ドイツの詩人に広く読まれた詩論である。
作品
『屍体公示所』(1912年)
最初の詩集で、の代表作にあたる。
『肉』(1917年)、『分裂』(1925年)は中期の詩集である。
『新国家と知識人』(1933年)
ナチス支持を表明した講演と論考を集めたものである。この一冊が、以後の評価を規定した。
『二重生活』(1950年)
自伝的な散文で、医師と詩人という二つの生を扱う。
『静的な詩』(1948年)
戦後最初に刊行された詩集である。スイスで出版された。
『抒情詩の諸問題』(1951年)
詩論の講演である。
日本語では詩の抄訳が読める。
文学史における立ち位置と影響
ベンは、ドイツ表現主義の詩を代表する一人にあたる。トラークル、ハイムらと同じ時期に置かれ、そのなかで最も長く生きて活動を続けた。
戦後西ドイツにおける影響が大きい。1950年代、若い詩人たちにとって最も重要な先行者だった。「絶対詩」の考え方が、政治から距離を置く詩の根拠として受け取られている。ツェランはこれに反対の立場をとり、詩は誰かへ向かう対話だと述べた。二人の対比は、戦後ドイツ語詩の二つの方向として論じられる。
その受容には、常にナチス支持の経歴が伴う。ベンは戦後、自分の支持は一年足らずの誤りだったと説明したが、公開書簡と講演の内容は残っており、弁明として十分かどうかは議論が続いている。セリーヌやハントケをめぐる問題と同じ構造にあたる。
同時に、体制から排斥され、執筆を禁じられたという事実もある。加害者とも被害者とも単純に言えないこの位置が、評価を難しくしている。
詩の技法という点では、医学と科学の語彙を詩に持ち込んだ功績が認められている。抒情詩が扱える対象の範囲を、大きく広げた。
日本では戦後に紹介され、詩人と研究者のあいだで読まれている。