レフ・トルストイ

- 原綴
- Лев Толстой
- 生没
- 1828–1910
- 出身
- トゥーラ県ヤースナヤ・ポリャーナ
- 国
- ロシア
- 時代
- 黄金時代
生涯
1828年、モスクワ南方の領地ヤースナヤ・ポリャーナに、伯爵家の四男として生まれた。2歳で母を、9歳で父を失い、親族に育てられている。大学に入るが中退し、放蕩と賭博の日々を送った。
24歳で軍に入り、カフカスに従軍する。クリミア戦争ではセヴァストーポリの攻囲戦に加わり、その体験を『セヴァストーポリ物語』に書いた。この従軍記で作家として知られるようになる。
除隊後は領地に戻り、農民の子のための学校を開いた。34歳で結婚し、13人の子をもうけている。妻ソフィヤは戦争と平和の原稿を何度も清書したと伝えられる。この時期に二つの長篇を書き上げた。
50歳前後で思想的な転回を経験する。死への恐怖と、自分の生き方への疑いから、既成の教会を否定し、福音書を読み直して独自の信仰にたどり着いた。以後は私有財産を否定し、農民のような暮らしを求め、著作権の放棄を主張して家族と対立する。1910年、82歳で家出し、旅先のアスターポヴォ駅で肺炎により死去した。
作風
トルストイは、人物の内面を外側の細部から書く。手の動き、視線の向き、部屋に置かれた物、服の擦れる音。具体物を積み重ねることで、そこにいる人間が何を感じているかが伝わる。心理を直接説明せず、見えるものだけを並べる方法である。
視点の移し方も自在である。戦争と平和では、舞踏会の場面から戦場へ、貴族の食卓から農民の小屋へ、さらには狩りに出た猟犬の感覚にまで視点が移る。500人以上の人物が登場し、そのそれぞれに内面が与えられている。
作品には論が挿入される。戦争と平和には歴史論が長く置かれ、英雄が歴史を動かすという見方を否定している。ナポレオンも一つの駒にすぎず、歴史は無数の人間の行動の総和として動く、という主張である。小説と論文が混在した構造であり、本人はこれを「小説ではない」と述べた。
晩年の作品では、この論の比重がさらに増す。『芸術とは何か』では、多くの芸術を、少数の人間にしか通じない偽物として否定した。自作の戦争と平和とアンナ・カレーニナも、その対象に含めている。
作品
戦争と平和(1869年)
ナポレオンのロシア侵攻を背景に、四つの貴族の家の人々を追った長篇である。歴史論の挿入があるため、小説部分だけを追う読み方でも成立する。
アンナ・カレーニナ(1877年)
高官の妻アンナが青年将校と恋に落ち、家庭を捨てて破滅するまでを描く。同時に、地主リョーヴィンが農業と信仰のなかで生き方を探す筋が並行する。長篇二作のうちでは筋を追いやすい。
『イワン・イリイチの死』(1886年)
中篇である。平凡な官吏が不治の病に倒れ、これまでの人生が間違っていたのではないかと考えはじめる。短く、トルストイの文体と方法が短時間で分かるため、入口に向く。
『復活』(1899年)
最後の長篇で、かつて自分が誘惑した女性が罪に問われる法廷に、陪審員として立つ貴族を描く。司法と教会への批判が正面から書かれている。
『芸術とは何か』(1897年)
晩年の芸術否定の論である。
文学史における立ち位置と影響
トルストイはドストエフスキーと並ぶロシア黄金時代の頂点にある。二人は同時代に生き、互いを意識しながら一度も会わなかった。トルストイが外から見える世界の全体を書いたのに対し、ドストエフスキーは意識の内側と思想の対立を書いた、という対比が一般的である。
写実主義の到達点とされる。ただし社会の描写にとどまらず、人はどう生きるべきかという問いにまで進んだ点で、フローベールらフランスの写実主義とは性格が異なる。フローベールが作者を作品から消したのに対し、トルストイは判断を隠さない。
規模の面でも例外的である。500人を超える人物、20年に及ぶ時間、戦場から舞踏会までの空間。それだけの範囲を、細部の精度を落とさずに書ききった作品は少ない。
晩年の思想は文学の外へ広く影響した。国家と暴力を否定する立場はガンディーに影響を与えたとされ、両者は書簡を交わしている。宗教・社会運動の領域でも参照され続けている。
日本では明治期に紹介され、島崎藤村をはじめ多くの作家が読んだ。徳冨蘆花は来訪してトルストイと会っている。