ロシア文学の黄金時代 — ドストエフスキーとトルストイ
黄金時代は、プーシキンが本格的に書き始めた1820年代から、1890年頃までを指す。
19世紀のロシアで何が起きたのかは、それ自体が問いである。前の世紀までほとんど蓄積のなかった国から、ドストエフスキーとトルストイが同時期に出た。説明は一つに定まらないが、繰り返し挙げられる条件がある。
なぜこの短期間に密度が生まれたか
議論の場が文学しかなかった。 議会も政党も自由な新聞もない。社会をどうすべきかという議論は、小説と批評の中で行われた。だから小説が思想の重さを引き受ける。西欧の小説が娯楽と教養の産物でもあったのに対し、ロシアでは小説を書くことが政治的な行為だった。
巨大な矛盾が目の前にあった。 農奴制は1861年まで続く。西欧化した貴族と、生活が変わらない農民。この落差そのものが主題になる。
遅れて始まったことが有利に働いた面もある。西欧の小説の技法を、蓄積された状態でまとめて受け取れた。そして検閲は、逆説的に文体を鍛えた。直接書けないことを、寓意と細部で書く技術が発達している。
黄金時代の主な作品
| 作品 | 発表 | 作者 | 種類 |
|---|---|---|---|
| エヴゲーニイ・オネーギン | 1825〜1832年 | アレクサンドル・プーシキン | 韻文小説 |
| 死せる魂 | 1842年 | ニコライ・ゴーゴリ | 小説 |
| 外套 | 1842年 | ニコライ・ゴーゴリ | 短篇 |
| オブローモフ | 1859年 | イワン・ゴンチャロフ | 小説 |
| 父と子 | 1862年 | イワン・ツルゲーネフ | 小説 |
| 地下室の手記 | 1864年 | フョードル・ドストエフスキー | 中篇小説 |
| 罪と罰 | 1866年 | フョードル・ドストエフスキー | 長篇小説 |
| 戦争と平和 | 1869年 | レフ・トルストイ | 長篇小説 |
| アンナ・カレーニナ | 1877年 | レフ・トルストイ | 長篇小説 |
| カラマーゾフの兄弟 | 1880年 | フョードル・ドストエフスキー | 長篇小説 |
| 桜の園 | 1904年 | アントン・チェーホフ | 戯曲 |
プーシキンが、ロシア語の散文と韻文の水準を決めた
プーシキンは、ロシア文学のほとんどすべての出発点に置かれる。
エヴゲーニイ・オネーギン(1825〜1832年)は韻文で書かれた長篇小説である。特殊な脚韻構成(オネーギン・スタンザ)を全篇にわたって用い、社交界に倦んだ青年と、その青年を愛して拒まれ、後に再会したときには立場が逆転している女性を描く。軽さと深刻さが同居している。語り手が脱線し、読者に話しかけ、しかし人物の運命は容赦がない。
功績は主題より言語にある。話し言葉と文章語、俗語と雅語を自在に往復する文体を作った。 以後のロシア語の散文と韻文が、ここを基準にする。決闘で三十七歳で死んでいる。
ゴーゴリは、現実を歪めることで現実の構造を見せた
ゴーゴリは同じ作品の中で笑わせ、不安にさせる。
死せる魂は、死んだ農奴の戸籍を買い集める男が地主を訪ね歩く話である。訪問先の地主が一人ずつ描かれ、それぞれが人間の一つの類型として誇張されている。外套では、貧しい役人が外套を新調し、それを奪われて死に、幽霊になる。「我々は皆ゴーゴリの外套から出てきた」という言葉が伝わっている(ドストエフスキーに帰されることが多いが、出典は確かでない)。
現実を歪めて書くことで、かえって現実の構造が見えるという方法がここにある。
小説の登場人物が、思想の論争の担い手になった
1840年代以降、西欧派とスラヴ派の論争が起きる。ロシアは西欧の道を進むべきか、独自の共同体に根拠を求めるべきか。小説の登場人物が、この論争の担い手として造形される。
ツルゲーネフの父と子(1862年)は、旧世代の貴族と、科学と否定を掲げる青年バザーロフを対置した。既存の価値をいっさい認めない立場を指すニヒリストという語が広まったのは、この作品による。発表時、保守派からも急進派からも攻撃された。ゴンチャロフのオブローモフは、寝台から起き上がらない地主を主人公にし、オブローモフ主義がロシア的な怠惰と無為を指す語になった。
ドストエフスキーは、思想が人物の中で破綻するまで書いた
ドストエフスキーは死刑判決を受け、刑場で執行の直前に減刑され、シベリアで四年を過ごした。
罪と罰(1866年)は、選ばれた人間には道徳を踏み越える権利がある、という理屈で老婆を殺した学生が、その理屈に耐えられなくなる話である。思想が人物の中で試され、破綻する。 地下室の手記では、地下室の男が理性による幸福の設計を拒否する。人間は自分の不利益を選ぶ自由を求めるという主張であり、啓蒙以来の合理主義への反論になっている。カラマーゾフの兄弟(1880年)の「大審問官」では、キリストが再臨し、審問官に、自由は人間には重すぎる、と告げられる。信仰への疑いを、信仰を擁護する作品の中で最も強く書いた。
方法上の特徴として、複数の思想が作者に統合されず、対等に主張し合う点が挙げられる。批評家バフチンはこれを「ポリフォニー(多声性)」と呼んだ。
トルストイは、外から見えるものだけで内面を伝えた
トルストイの戦争と平和(1865〜1869年)は、ナポレオン戦争期のロシアを、数百人の人物と歴史論を交えて書いた。歴史は英雄が動かすのではないという主張が、作品の随所に地の文として置かれる。小説であり歴史哲学の書でもある、という構造をとる。
アンナ・カレーニナ(1873〜1877年)は、不倫によって社会から排除されていく女性と、農村で生の意味を探す地主の二つの筋を並行させる。細部の精度が際立つ。 表情、身振り、部屋の匂い。内面を説明せずに、外から見えるものだけで伝える場面が多い。
晩年、宗教的な転回を経て、芸術としての自作を否定的に語るようになる。非暴力の思想はガンディーに影響を与えた。
チェーホフは、何も起こらないことを劇にした
チェーホフは医師で、短篇と戯曲を書いた。
それまでの劇の作り方を変えた。大きな事件が起こらない。人物は本心と違うことを話し、噛み合わない会話が続く。桜の園では、屋敷が売られるまでの間、誰も有効な行動を取らない。何も起こらないこと自体を劇にしたという点で、20世紀の演劇の前提になった。本人は桜の園を喜劇と呼び、初演で悲劇として演出したスタニスラフスキーと対立している。
黄金時代が残したのは、思想の重さを負った小説
| 中身 | |
|---|---|
| 文学が代替した | 議会も自由な新聞もなく、社会の議論が小説の中で行われた |
| 言語の基準 | アレクサンドル・プーシキンがロシア語の散文と韻文の水準を決めた |
| 思想の実験 | フョードル・ドストエフスキーは思想を人物に担わせ、その帰結まで書いた |
| 形式の破壊 | アントン・チェーホフは事件のない劇を成立させた |