写実主義とは? 社会と人間をありのままに描いた近代小説の方法
- 発祥
- フランス
- 年代
- 1830–1880
写実主義(リアリズム)は、19世紀のヨーロッパで、社会と人間をありのままに——理想化も誇張もせず——描こうとした文学の立場である。英雄や絵空事ではなく、金や結婚や階級に縛られて生きる普通の人々を、目の前にあるとおりに書く。近代小説のもっとも基本的な方法になり、各国でほぼ同時に展開した。
ロマン主義への反動
直前の時代を覆っていたロマン主義は、強い感情や、遠い異国、中世の伝説、非凡な個人を好んで描いた。写実主義はその反対を向く。いま目の前にある社会を、そのまま書く。スタンダールは、小説とは「道に沿って持ち歩く鏡だ」という趣旨のことを書いた。鏡は、空の青も道のぬかるみも、映るものをそのまま映す。美しいものだけを選ばない——それが写実主義の姿勢である。
フランスの二つの方法
写実主義の中心はフランスで、そこに対照的な二つのやり方が現れた。
バルザックは、自分の全作品を『人間喜劇』という一つの大きな建物として構想した。約90編の小説をまたいで同じ人物を何度も登場させ、ある作品の脇役が別の作品では主役になる。こうして、個々の小説の外側に、パリの社交界や地方の町といった「社会そのもの」が実在するかのような感覚が生まれる。代表作ゴリオ爺さんは、金と出世に取り憑かれた人々を通して、当時の社会の仕組みを一つの縮図として見せた。

フローベールは逆の方向へ進み、作者の姿を作品から消そうとした。用いたのがで、地の文の中に登場人物の心の声をかぎかっこなしで溶け込ませ、「これは良い、これは悪い」という作者の判断を文章から追い出す。ボヴァリー夫人は、地方医師の妻が恋愛小説に憧れて現実に破れていくさまを、突き放した筆致で描き、風俗を乱すとして裁判にかけられた(1857年、無罪)。
前者は社会を積み上げ、後者は書き手を消す。以後の近代小説は、この二つの方向のあいだで展開していく。
各国への広がり
写実主義は一国の運動ではなく、各国で並行して現れた。
| 国 | 主な作家 | 特徴 |
|---|---|---|
| フランス | オノレ・ド・バルザック ギュスターヴ・フローベール スタンダール | 社会の体系化、語り手の消去 |
| イギリス | チャールズ・ディケンズ ジョージ・エリオット | 連載小説で大衆に届く社会批判 |
| ロシア | レフ・トルストイ フョードル・ドストエフスキー | 社会の観察を人間の魂の問題まで深める |
| ドイツ | テオドール・フォンターネ ゴットフリート・ケラー | 地方社会を静かに描く詩的リアリズム |
イギリスのディケンズは、新聞や雑誌の連載小説として書き、貧困や労働を扱いながら大衆に広く読まれた。エリオットは田舎町の人間関係と道徳を精密に描いた。ロシアではトルストイの戦争と平和やドストエフスキーの罪と罰が、社会の観察を、人が何のために生きるかという問いにまで押し進めた。同じ写実主義でも、フランスが「書く方法」を、ロシアが「人間の深さ」を追求したと整理できる。
日本の写実主義と言文一致
日本に写実主義が入ったのは明治20年前後(1880年代後半)である。坪内逍遥が評論『小説神髄』で、勧善懲悪——善人が栄え悪人が罰せられるという型——を否定し、人情をありのままに写すことこそ小説の本分だと説いた。二葉亭四迷がそれを浮雲で実作に移す。
ここに日本だけの困難があった。当時の書き言葉(文語)は話し言葉とかけ離れていて、日常をそのまま写せる文体が存在しなかった。ありのままを書こうにも、書くための言葉がない。そのため日本の写実主義は、同時に「話し言葉に近い文章で書く」という言文一致の言語実験にならざるをえなかった。西洋では前提だった「現実を写す文体」を、日本は一から作りながら写実を目指したことになる。
ロマン主義・写実主義・自然主義の関係
文学史の教科書は、ロマン主義・写実主義・自然主義を、順番に交代したかのように並べる。だが実際には、これらは重なり、並走していた。フローベールは写実主義の完成者であると同時に、弟子筋にあたるゾラの自然主義の先駆けでもある。写実主義がさらに科学の方向へ徹底したものが自然主義であって、両者に明確な境目はない。流派の名前は、あとから整理のために貼られたラベルである。
後世への影響
写実主義は、一つの流派にとどまらず、近代小説そのものの標準的な書き方になった。社会を積み上げるバルザックの方法と、語り手を消すフローベールの方法は、以後の小説が拠って立つ二つの土台になり、自然主義はその一方をさらに徹底したものにあたる。理想化を排して同時代の現実を観察するというその姿勢は、20世紀に語りの実験へ向かうモダニズムが反発するまで、小説の当たり前の前提であり続けた。