イワン・ゴンチャロフ

原綴
Иван Гончаров
生没
1812–1891
出身
シンビルスク(現・ウリヤノフスク)
ロシア
時代
黄金時代

生涯

1812年、ヴォルガ河畔のシンビルスクに、裕福な商人の家に生まれた。父は早くに死に、退役軍人だった名づけ親に育てられた。

モスクワ大学を出た後、ペテルブルクで官吏になった。財務省などに長く勤め、作家として活動しながら、生涯にわたって役人の職を離れなかった。晩年には、検閲官を務めてもいる。

1847年、最初の長編『平凡物語』を発表し、認められた。

1852年から54年にかけて、軍艦パルラダ号に乗り、使節団の一員として世界を巡航した。イギリス、アフリカ、日本、シベリアを経て帰国している。この航海の記録『日本渡航記(パルラダ号)』は、日本を訪れた時期の記録を含み、日本ではとくに関心を持たれてきた。

1859年、オブローモフを刊行した。長い執筆期間を経た作品で、これによってゴンチャロフの名は決定的なものになる。

その後、1869年に『断崖』を発表した。だが、この作品の構想をめぐって、ツルゲーネフが自分のアイディアを盗んだという妄想に取り憑かれ、晩年は被害妄想に苦しんだ。人付き合いを避け、孤独に過ごした。1891年、七十九歳で死去した。

作風

ゴンチャロフが描いたのは、何もしないこと、動けないことである。

オブローモフの主人公、オブローモフは、地主でありながら、一日中、寝台の上で過ごす。起き上がることも、着替えることも、決断することも、すべてが億劫である。小説の第一部は、ほぼ全編が、寝台から起き上がろうとして起き上がれない一日を描くことに費やされる。

オブローモフは無能でも愚かでもない。むしろ善良で、心優しく、聡明ですらある。だが、意志が完全に欠けている。行動を起こそうとするたびに、その先の面倒を想像して、やめてしまう。有能で活動的な友人シュトルツが励まし、聡明なオリガが愛して立ち直らせようとする。だが、オブローモフは結局、その愛にも応えきれない。最後は、家事をしてくれる素朴な後家のもとで、再びかつての怠惰な生活に沈み、そのまま死んでいく。

この怠惰は、単なる個人の性格ではない。ロシアの旧来の地主社会——農奴の労働に支えられ、何もせずに暮らせる暮らし——が生み出した産物として描かれる。オブローモフが夢に見る、幼い頃の領地の生活は、時間が止まったような、まどろみの世界である。この「オブローモフの夢」の章が、作品の核にある。

文体は、ゆったりとして、細部を丹念に描く。急がず、じっくりと、一つの情景を書き込む。この緩やかな筆致そのものが、主人公の生の緩慢さと呼応している。

作品

『平凡物語』(1847年)

最初の長編である。理想に燃えた青年が、都会での生活のなかで幻滅し、現実的な俗物になっていく過程を描く。

オブローモフ(1859年)

代表作である。怠惰な地主の生涯を描く。

『断崖』(1869年)

三作目の長編で、芸術家肌の青年を主人公にする。

『日本渡航記(フリゲート艦パルラダ号)』(1858年)

世界巡航の記録である。幕末の日本を訪れた際の記述を含む。

日本語では『オブローモフ』が読める。

文学史における立ち位置と影響

オブローモフは、ロシア文学の記念碑的な作品の一つである。オブローモフという人物像は、一つの時代を象徴するものとして受け取られた。

「オブローモフ主義(オブローモフシチナ)」という言葉が生まれた。批評家ドブロリューボフが、この作品を論じた評論「オブローモフ主義とは何か」で用いた語である。意志の欠如、無為、旧来の地主社会がもたらす精神の停滞を指す。この言葉は、ロシア社会そのものへの批判として広く使われるようになった。レーニンも、革命後のロシアに残る惰性を批判する際に、この語を用いている。

「余計者」の系譜のなかにも位置づけられる。プーシキンエヴゲーニイ・オネーギンレールモントフの『現代の英雄』と続く、有能でありながら何も成し遂げられない人物像の系譜である。オブローモフは、その極限の形——行動そのものを放棄した人物——にあたる。

日本での受容には、独自の関心がある。『日本渡航記』が、幕末の日本を外から見た記録として読まれてきた。ペリー来航とほぼ同時期に、ロシアの使節も日本を訪れており、その一員だったゴンチャロフの記録は、当時の日本を知る資料になっている。

『オブローモフ』も繰り返し訳され、無為と怠惰を通じて人間と社会を描いた作品として読まれている。

作品

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