アントン・チェーホフ

- 原綴
- Антон Чехов
- 生没
- 1860–1904
- 出身
- エカテリノスラフ県タガンログ
- 国
- ロシア
- 時代
- 黄金時代
生涯
1860年、アゾフ海に面した港町タガンログに生まれた。祖父は農奴だった。地主に従属し、土地とともに売買される身分である。その祖父が自分と家族の身請け金を払い、自由を買った。父は雑貨商だったが破産し、一家は夜逃げ同然にモスクワへ移った。16歳のチェーホフは一人町に残り、家庭教師をしながら学校を終えている。
モスクワ大学の医学部に進み、在学中から雑誌に短い滑稽譚を書いて家計を支えた。当初は小遣い稼ぎの仕事だったが、次第に本格的な短篇へ移っていく。卒業後は医師として開業し、生涯にわたって診療を続けた。文学は自分の妻ではなく愛人だ、という趣旨のことを書いている。
1890年、30歳のときサハリンへ渡った。流刑地の実態を自費で調査するためで、往復に一年近くを要している。数千人の住民に聞き取りを行い、その記録を『サハリン島』にまとめた。
1896年、戯曲『かもめ』の初演が失敗する。観客は笑い、チェーホフは劇場を去った。だが二年後、新しくできたモスクワ芸術座での再演が成功する。演出家スタニスラフスキーが率いる劇団で、以後チェーホフはここと組んで戯曲を書くことになった。
結核が進み、療養のためクリミアで暮らした。1901年に女優オリガ・クニッペルと結婚するが、離れて暮らす期間が長い。1904年、ドイツの保養地バーデンヴァイラーで44歳で死去した。
作風
チェーホフは、事件を起こさずに小説と劇を成立させた。明快な筋も劇的な結末もなく、人物は日常のなかで何かを取り逃がし続ける。その状態そのものが作品になっている。
短篇では、説明を省いて細部だけを提示する。人物の心情を書かず、その人が何を見て何をしたかだけを置く。読者は判断を渡されないまま終わる。「小説家の仕事は問題を解決することではなく、問題を正しく提出することだ」という趣旨の言葉を、書簡に残している。
戯曲でも同じ方法をとった。三人姉妹では、姉妹がモスクワへ行きたいと言い続け、最後まで行かない。桜の園では、屋敷が競売にかけられると分かっていながら、誰も有効な手を打たないまま日が過ぎる。人物たちは噛み合わない会話を交わし、それぞれ自分の話をする。
舞台の外で重要なことが起きるのも特徴である。決闘、自殺、競売。劇的な出来事は幕の裏で処理され、舞台では人がお茶を飲み、天気の話をしている。
「チェーホフの銃」と呼ばれる原則も伝えられる。第一幕で壁に銃を掛けたなら、それは撃たれなければならない、という趣旨で、書簡や伝聞に残る。無駄な要素を置くなという創作上の助言である。
作品
短篇には『犬を連れた奥さん』『退屈な話』『六号室』『可愛い女』などがある。数ページのものが多く、方法の特徴がすぐ分かるため、入口として手軽である。
『かもめ』(1896年)
湖畔の別荘を舞台に、作家を志す青年と女優を志す娘、そして流行作家と大女優の四者が絡む。初演は失敗し、再演で成功した。
『ワーニャ伯父さん』(1897年)
退職した学者のために働き続けてきた男が、その人生が無駄だったと気づく話である。
三人姉妹(1901年)
地方都市に暮らす姉妹が、モスクワへの帰還を願い続ける。
桜の園(1904年)
最後の戯曲である。没落した貴族の一家が、先祖代々の桜の園を手放すまでを描く。
『サハリン島』(1895年)
流刑地の調査記録で、文学作品ではないが、この作家を知るうえで欠かせない。
文学史における立ち位置と影響
チェーホフは近代短篇小説の型を作った。説明せず、結末をつけず、細部で示す。この方法は20世紀の短篇の標準になっている。同時代のフランスのモーパッサンと並べられることが多いが、方向は逆である。モーパッサンが最後で意味を反転させて構成を閉じるのに対し、チェーホフは何も解決しないまま終わる。
演劇史での影響はさらに大きい。スタニスラフスキーとの協働を通じて、内面を重視する演技法の基礎が作られた。台詞の裏に何を考えているか——後に「サブテキスト」と呼ばれる考え方が、ここから生まれる。この方法は20世紀の演劇と映画の演技論に決定的な影響を与えた。
桜の園の解釈をめぐる対立も知られる。チェーホフ本人は喜劇として書いたが、スタニスラフスキーは悲劇として演出した。二人は激しく議論し、決着しないままチェーホフは死んでいる。この対立は今日まで続いており、上演のたびに問題になる。
ロシア黄金時代の最後に位置する。トルストイとドストエフスキーの巨大な長篇の時代の後に、小さく静かな形式を確立したことになる。トルストイはチェーホフの短篇を高く評価する一方、戯曲は理解できないと述べた。