父と子
- 原題
- Ottsy i deti
- 作者
- イワン・ツルゲーネフ
- 成立
- 1862
- 国
- ロシア
- 時代
- 黄金時代
概要
1862年に発表された長篇小説である。1859年、農奴解放の二年前の夏を舞台にする。
主人公は医学生バザーロフ。あらゆる権威、伝統、芸術、恋愛感情を無意味として斥け、自然科学と実証だけを認める。自らを「ニヒリスト」と呼ぶ。 権威を前提として受け入れず、いかなる原理にも屈しない者、という意味で作中で定義される。
物語は、バザーロフと友人アルカージイが、それぞれの父の世代と衝突する形で進む。父の世代は、教養と理想を重んじた1840年代の自由主義者である。1840年代の理想主義者と、1860年代の実証主義者の対立が、この作品の骨格をなす。
題名の「父」と「子」は、単なる親子ではなく、二つの世代を指す。作品は、どちらか一方に肩入れせず、両者の限界を同時に描く。
ツルゲーネフは1818年、ロシアの地主貴族の家に生まれた。西欧、とくにフランスとドイツで長く暮らし、ヨーロッパにロシア文学を紹介する役割を果たした。1840年代の自由主義的な知識人の世代に属する。
執筆は農奴解放をめぐる緊張の時期にあたる。当時、貴族の子弟から急進的な思想を持つ若い世代が現れ、既存の秩序と対立していた。バザーロフの造形は、この新しい世代を描こうとしたものである。ツルゲーネフは、ある若い田舎医者から着想を得たと述べている。
刊行後、この作品は激しい論争を引き起こした。保守派からは、革命的な若者を美化していると非難され、急進派からは、若い世代を戯画化していると攻撃された。 双方から責められたことに、ツルゲーネフは深く傷ついた。バザーロフをどう評価しているのかという問いに、自分でも答えを一つに定められないと述べている。
この論争は、ツルゲーネフとロシアの若い世代との関係を悪化させた。以後、多くをヨーロッパで過ごし、1883年にフランスで死去した。
文学史における評価と影響
「ニヒリスト」という語を広めた作品として知られる。この語自体は以前からあったが、この小説を通じて、既存の価値をすべて否定する新しい世代を指す言葉として定着した。1860年代のロシアの急進的な青年たちは、自らをこの名で呼ぶようになる。文学作品が現実の政治運動に語彙を与えた例にあたる。
世代の対立を主題化した点も大きい。1840年代の理想主義と1860年代の実証主義という、ロシア思想史の転換が、二組の親子を通して具体化される。以後、世代間の断絶を扱う文学の一つの型になった。
バザーロフの造形の複雑さが、この作品の核心にある。傲慢で無礼だが、誠実で知的である。恋愛を否定しながら恋に落ち、感傷を排しながら死の床で弱さを見せる。理論が現実の前で破綻する過程が描かれ、作者はそれを断罪も擁護もしない。この両義性が、当時の読者を困惑させ、後世の高い評価につながった。
ツルゲーネフの文体は、ドストエフスキーやトルストイの重厚さとは異なり、簡潔で均整がとれている。自然描写の美しさでも知られる。西欧の読者にとって、ロシア文学の最初の入口になったのはツルゲーネフの作品だった。
日本でも早くから読まれた。二葉亭四迷がツルゲーネフの別の作品を訳したことは、日本の近代小説の言文一致に影響を与えた。この作品も複数の訳がある。
あらすじ
1859年5月、医学生アルカージイ・キルサーノフが、学業を終えて父ニコライの領地に帰る。友人のバザーロフを伴っている。
父ニコライは温厚な地主で、詩を愛し、農地の経営に苦心している。伯父パーヴェルは、かつて社交界で鳴らした洗練された貴族で、今も身なりを整えて田舎に暮らしている。
バザーロフは、この二人の生き方を露骨に軽んじる。詩も芸術も無用であり、ラファエロは一文の値打ちもない、まともな化学者は詩人より役に立つ、と言い放つ。パーヴェルはこれに反発し、二人は繰り返し議論する。伝統と原理を重んじるパーヴェルと、それらをすべて否定するバザーロフの応酬が、作品の中心をなす。
二人は近くの町へ出て、裕福な未亡人オジンツォワと出会う。バザーロフは、恋愛など生理的な現象にすぎないと公言してきたが、この女性に強く惹かれる。自分が否定してきた感情に、自分が捕らえられる。 告白するが、オジンツォワは冷静に距離を置く。バザーロフは動揺し、自分の理論と現実の乖離に苦しむ。
バザーロフは自分の実家に帰る。老いた父母は、久しぶりに戻った一人息子を溺愛する。父は元軍医で、息子を誇りに思っている。バザーロフはその愛情に応えきれず、居心地の悪さから早々に発つ。
キルサーノフ家に戻る。バザーロフが、パーヴェルの想い人でもある召使フェーニチカと戯れたことから、パーヴェルが決闘を申し込む。決闘でパーヴェルは軽傷を負い、この時代錯誤な争いは滑稽な結末に終わる。バザーロフはキルサーノフ家を去る。
アルカージイは、オジンツォワの妹カーチャと結ばれる。バザーロフの影響から離れ、父の世代に近い穏やかな生き方に落ち着いていく。
バザーロフは実家に戻り、父の診療を手伝う。チフスで死んだ農民を解剖した際、傷口から感染する。死期を悟ったバザーロフは、オジンツォワを呼び寄せる。最後まで感傷を排そうとしながら、ロシアには自分のような人間が必要なのかと問い、消灯を頼むように死んでいく。
末尾では、年老いた両親が、田舎の墓に眠る息子を訪ねる場面が置かれる。