戦争と平和

原題
Voyna i mir
作者
レフ・トルストイ
成立
1869
ロシア
時代
黄金時代

概要

1865年から1869年にかけて雑誌連載と単行本で発表された長篇小説である。全四篇と二部からなるエピローグ。登場人物は五百人を超え、うち実在の人物が相当数を占める。

扱う時期は1805年から1820年で、中心にあるのは1812年のナポレオンによるロシア侵攻である。追われるのは主に四つの家系で、内省的で財産の使い道に迷うピエール・ベズーホフ、名誉を求めて出征し価値観を変えていくアンドレイ・ボルコンスキー、その二人と関わる若いナターシャ・ロストワが軸になる。

小説の途中に、作者自身の歴史論が地の文として何度も挿入される。歴史を動かすのは英雄の意志ではなく、無数の人間の行為の総和であり、ナポレオンもトルストイの見立てでは自分が何かを動かしていると思い込んでいたにすぎない、という主張である。エピローグの第二部はほぼ全体が論文で、物語は含まれない。この作品は小説の途中で小説であることをやめる。 トルストイ自身、これは長篇小説でも叙事詩でも年代記でもなく、作者が表現したい形で表現されたものだと述べている。

執筆の出発点は1825年のデカブリストの乱だった。皇帝への反乱を起こして流刑になった貴族が、三十年後に赦されて帰還する話を書こうとして、その人物の若い時代へ遡るうち、1812年の戦争へ、さらに1805年へと起点が移った。エピローグでピエールが秘密結社に関わる場面は、当初の構想の名残にあたる。

執筆には七年近くを要し、トルストイは史料を大量に読み、ボロジノの古戦場を訪ねて地形を実地に調べている。妻ソフィアが草稿を何度も清書したことはよく知られる。

題名の後半にあたるロシア語の語は、当時の正書法では平和を意味する綴りと、世界・共同体を意味する綴りが書き分けられており、この作品で使われたのは平和のほうである。世界という含みを持たせた題だという説明が流布しているが、原題の表記からは支持されない。

歴史記述に対する批判は刊行当初から出た。とくにクトゥーゾフを、何もせずに事態の推移に従うことで正しい判断に至った人物として描いた点や、ナポレオンを歴史の主体として認めない立場が、歴史家から反発を受けた。トルストイは論文で応答している。

文学史における評価と影響

歴史小説の枠を大きく超えた作品として扱われる。歴史上の事件と実在の人物を扱いながら、その事件を動かしているのは指導者ではないという主張が、小説の構造そのものに組み込まれている。戦場の場面は、司令部からの俯瞰ではなく、状況が分からないまま動く個々の人物の視点から書かれる。戦闘の全体像は誰にも見えていないという書き方が、後の戦争文学に受け継がれた。

日常の場面の密度も、この作品の評価を支えている。舞踏会の準備、狩り、村の祭り、出産、臨終。歴史の記述と同じ重さで生活が書かれ、両者が切れ目なく並ぶ。人物の内面は、意識の断片や思いつきの形で提示され、説明で処理されない。

型を破った作品としても位置づけられる。長篇小説でありながら論文を含み、主人公が複数いて、明確な結末を持たない。19世紀西欧の小説が備えていた形式の外にあることが、当時から指摘されていた。

日本では明治期に紹介され、1910年代から全訳が試みられた。トルストイの非暴力の思想は同時代の日本の知識人に届き、志賀直哉ら白樺派の傾倒は広く知られる。映画化も繰り返され、1960年代のソ連版と、各国のテレビドラマ版がある。

あらすじ

第一篇。1805年、ペテルブルグの夜会でナポレオンの是非が論じられている。ピエールは大貴族の私生児で、放蕩の末に父の死により莫大な遺産と伯爵位を継ぐ。友人アンドレイは、妻に飽き、名誉を求めて従軍する。アウステルリッツの戦いでアンドレイは負傷して倒れ、見上げた高い空を前に、それまで求めてきた栄光が小さなものに見える。ナポレオンが自分を覗き込んで発した言葉も、空に比べれば取るに足りないと感じる。

第二篇。アンドレイは生還するが、妻は出産で死ぬ。ピエールは美貌のエレンと結婚して不幸になり、決闘し、フリーメイソンに入って生き方を探す。ロストフ家の娘ナターシャは十六歳になり、舞踏会でアンドレイと出会い、婚約する。父の反対で結婚は一年延期され、その間にナターシャはエレンの弟アナトーリと駆け落ちしかける。既婚者だと知って計画は破れ、婚約も破棄される。

第三篇。1812年、ナポレオンがロシアに侵攻する。ボロジノの戦いは双方に甚大な死傷者を出し、決着しないまま終わる。ロシア軍総司令官クトゥーゾフは、モスクワを放棄する決断を下す。ピエールは戦場を見物に行き、そのままモスクワに残ってナポレオンを暗殺しようと考えるが、火事の中で子どもを助けて捕虜になる。アンドレイはボロジノで腹に重傷を負う。ロストフ家は負傷兵を運ぶために家財を捨てて避難し、その中にアンドレイがいる。ナターシャは看護し、二人は和解する。アンドレイは死ぬ。

第四篇。フランス軍はモスクワで補給を失い、撤退を始める。冬の退却路で軍は壊滅する。捕虜として連行されたピエールは、農民出身の兵プラトン・カラターエフと出会う。何も所有せず、境遇を受け入れて生きるこの男の姿から、ピエールは生き方の答えを得る。カラターエフは行軍に耐えられなくなり射殺される。ピエールはパルチザンに救出される。ナターシャの兄ペーチャは戦死する。

エピローグ第一部。1813年、ピエールとナターシャが結婚する。ナターシャは社交を捨て、子育てに没頭する母親になる。アンドレイの妹マリヤはナターシャの兄ニコライと結婚する。1820年、ピエールは秘密結社に関わり始め、アンドレイの遺児ニコーレンカがそれを憧れとともに見ている。

エピローグ第二部は、歴史における自由と必然についての論考が置かれる。

作者

登場する文学史