オブローモフ
- 原題
- Oblomov
- 作者
- イワン・ゴンチャロフ
- 成立
- 1859
- 国
- ロシア
- 時代
- 黄金時代
概要
1859年に発表された長篇小説である。全四部。
主人公イリヤ・イリイチ・オブローモフは、三十代前半の地主である。ペテルブルグにアパートを借りて暮らしているが、何もしない。 一日の大半をソファに寝て過ごし、部屋着を着たまま起き上がらない。領地の経営は傾いているが手を打たず、書かねばならない手紙も先延ばしにする。
第一部のほぼ全体が、主人公が朝から起き上がるまでに費やされる。来客が次々に訪れ、活動的な世界へ誘うが、オブローモフは動かない。行動しないことが、この人物の生き方そのものになっている。
この無気力は、単なる怠惰として描かれない。善良で、純粋で、俗世の競争や虚栄を心から嫌っている。動かないことは、汚れた世界に関わることの拒否でもある。作中では、この性質を指して「オブローモフ主義(オブローモフシチナ)」という語が用いられる。
ゴンチャロフは1812年、ヴォルガ河畔の商人の家に生まれた。官吏として長く勤めながら執筆した作家である。寡作で、生涯に長篇を三作しか残していない。
この作品の構想は早く、第一部の「オブローモフの夢」は1849年に独立して発表されていた。全体の完成までにはさらに十年を要した。ゴンチャロフ自身、主人公に似た緩慢さを持っていたと言われる。
刊行は農奴解放の二年前にあたる。当時のロシアでは、地主貴族が農奴制の上に成り立つ生活を送っており、その階層の停滞が社会問題として意識され始めていた。オブローモフの無為は、この地主階級そのものの姿として読まれた。
シュトルツという活動的な人物を、ドイツ系として造形した点も、当時のロシアの状況を反映している。西欧的な実務能力を、ロシア人ではなくドイツ系に担わせたことの意味は、繰り返し論じられてきた。
文学史における評価と影響
「オブローモフ主義」という語を生んだことが、この作品の最大の遺産である。刊行の直後、批評家ドブロリューボフが「オブローモフ主義とは何か」という評論を書き、この語をロシアの後進性と地主階級の無為を指す概念として定着させた。以後、この語はロシア語の日常語になり、無気力や先延ばしを指して用いられる。文学作品の主人公の名が、普通名詞になった例にあたる。
作品の解釈には幅がある。社会批判として読めば、オブローモフは廃れゆく地主階級の象徴であり、シュトルツが体現する近代的な活力に取って代わられるべき存在である。この読みは、ドブロリューボフ以来のものである。
一方、20世紀以降、オブローモフへの共感を軸にした読みが強まった。この人物が拒んでいるのは、単なる労働ではなく、虚栄と競争と自己宣伝に満ちた世界である。何もしないことが、汚れた世界に加担しない選択でもあるという見方である。活動的なシュトルツの成功が、必ずしも人間的な充実を意味しないことも、作品は示している。オブローモフの善良さと純粋さは、作中で一貫して肯定的に描かれる。
この両義性が、作品を単純な教訓譚から救っている。無為をどう評価するかという問いは、決着しないまま読者に委ねられる。
日本でも訳が読める。第一部の緩慢さに慣れが要るが、ロシア文学の中でも独特の位置を占める作品である。
あらすじ
第一部。オブローモフはソファに寝ている。領地の代官から収入減を告げる手紙が届き、住まいの立ち退きも迫られているが、どちらにも対処できない。数人の来客が入れ替わり訪れ、社交界、出世、文学の話をして去る。オブローモフはすべてを面倒に思う。使用人のザハールは主人に劣らず怠惰で、二人の関係は倦怠の中で釣り合っている。
この部に、有名な「オブローモフの夢」が挿入される。オブローモフは、幼時を過ごした領地オブローモフカの夢を見る。時間が止まったような田舎で、誰もが食べ、眠り、季節の行事を繰り返すだけの世界。変化も労働もない楽園として描かれ、その性質がこの環境で形づくられたことが示される。
第二部。幼馴染で活動的なドイツ系のシュトルツが現れる。実務に長け、休みなく働き、ヨーロッパを飛び回る男である。シュトルツはオブローモフを引きずり出し、社交の場に連れて行く。そこでオブローモフは、聡明で生気にあふれた娘オリガと出会う。
第三部。オブローモフはオリガに恋する。オリガもまた、この善良な男を愛し、目覚めさせようとする。その愛によって、オブローモフは一時的に生き返る。散歩し、本を読み、手紙を書き、未来を語る。愛が、オブローモフを動かす唯一の力になる。
だが、結婚に必要な現実の手続き——領地の整理、住まいの用意——を前に、また動けなくなる。決断を先延ばしにし、会うのを避け、口実を並べる。オリガは、自分が愛したのは、なりうるはずのオブローモフであって、現にあるオブローモフではなかったと悟る。二人は別れる。オリガは、あなたを滅ぼしたのはオブローモフ主義だと言う。
第四部。オブローモフは、下宿の女主人プシェニーツィナのもとに落ち着く。この寡婦は、彼に何も求めない。料理を作り、家を整え、静かに世話をする。オブローモフは、かつて夢に見たオブローモフカに似た、変化のない安らぎの中に沈んでいく。二人は結ばれ、子も生まれる。
オリガはシュトルツと結婚し、活動的で満ち足りた家庭を築く。
オブローモフは、動かない生活の中で肥え、卒中の発作を繰り返し、静かに死ぬ。残された子は、シュトルツ夫妻が引き取る。物語の最後、シュトルツは、ある文学者にオブローモフの話を語り、その一生を「オブローモフ主義」の一語で要約する。